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第1回 足守藩医 緒方洪庵 足守除痘館 多くの子供の命救う

緒方洪庵像。種痘で多くの人々を救った

 岡山市足守、鍛冶山のふもとに緒方洪庵の生家跡がある。文化七(1810)年、足守藩士の子として生まれた。

 「医ニ志シ蘭学ヲ修メ(略)済生ヲ念トシ種痘術ノ普及ニ努メ専ラ力ヲ育英ニ注キ書ヲ著シ学ヲ講ス」

 碑は昭和二(1927)年、吉備郡医師会が生家跡の保存を発起し建立した。石に刻まれた文は藤原鉄太郎岡山県医師会長。幕末、将軍の侍医、西洋医学所頭取という最高位に上り詰めた江戸時代の名医をたたえる。碑の下にへその緒、元服の時の遺髪が埋められている。

 嘉永三(1850)年、足守藩医洪庵は天然痘治療のため、藩主木下利恭に大阪から呼び返された。天然痘はたびたび大流行、発熱、発疹(ほっしん)、水疱(すいほう)ができ、死亡率の高い小児感染症として一番恐れられていた。

 藩主の大きな期待を受け、洪庵は兄惟正の五歳の子に牛痘を施し見事に成功した。「まず、藩主の子供から始めよ」と命じられ、足守川にかかる葵橋の近くに除痘館が用意され領内の子供たちに接種が行われた。

 除痘館の陣容を示す記録が残る。

館長 緒方洪庵

補助 山田元珉
    内藤畝庵

簗瀬(井原市)山鳴弘斎

津山藩菊池秋坪

備中総社潮田遠平

備中大崎(岡山市)石原朴平(改め守屋庸庵)

備中四十瀬(倉敷市)内藤謙叔

高松新庄(岡山市)山下敬斎

井原千原英舜

足守山田貞順

足守二宮秋健

芸州西有慶

佐倉藩神保良粛

 医師十四人。備中、美作の医師を集め、さらに適塾で学ぶ新進気鋭の若き蘭方医を動員し大病院並み。山鳴は洪庵とともに江戸で蘭学を学び、適塾開設に協力。「洪庵帰郷」「足守種痘」を聞いて駆け付けた。山田は足守藩医。貞順は息子で守屋、潮田も適塾門人。菊池は足守種痘の直後、江戸で箕作阮甫の娘と結婚、箕作秋坪となる。後の東京帝国大総長菊池大麗はその二男。

 牛痘接種というまさにオランダ医学の新しい治療法で子供たちの生命を救おうと使命感に燃えた洪庵。十四人は懸命に取り組み、領内の子供約千五百人が恩恵を受けた。

 撫川、高松、帯江、早島など近隣からも頼まれ、約五千人にも施した。洪庵は足守除痘館に参加した医師をはじめ、金川の難波抱節、津山の野上玄瑞、玄雄、倉敷の石坂堅壮ら多くの医師に牛痘苗を分与し、接種方法を指導、その結果多くの子供が救われ、名医洪庵の名は広まった。

 中山沃(そそぐ)岡山大名誉教授は「牛痘が長崎に入った次の年、早くも足守を拠点に備中、美作で実施、四国にまで広まったのは洪庵がいたからこそ。視点が大衆に向き、多くの庶民の子供たちを病魔から救済した医師としての姿勢は立派だ」と言う。

 この時、洪庵四十一歳。大阪の医師番付けで、最高位にランクされ、最先端のオランダ医学で病気をなおす蘭方医洪庵は働き盛り。故郷岡山で大きな仕事をした。


医家俊秀

 緒方洪庵は十六歳から大阪四年、江戸四年、長崎二年、オランダ語、オランダ医学を学び、二十九歳で適塾を開いた。

 津山洋学の宇田川家はその一世代前。玄随は本邦初の西洋内科書・西説内科撰要、榛斎はオランダ語の解剖学訳書・和蘭内景医範提綱を出した。緒方洪庵、箕作阮甫は榛斎に学んだ。榕庵は日本最初の化学書・舎密開宗を訳した。オランダ医師シーボルト高弟に石井宗謙、児玉順蔵がいる。宗謙は岡山下之町で開業、シーボルトの娘イネを指導した。
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2005年08月01日 更新)

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