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第2回 足守藩医 緒方洪庵(2) 適塾 岡山の若者 研鑽つむ

岡山の近代医学の俊秀たちが学んだ適塾

 大阪市中央区北浜、ビジネス街のビルの間に瓦ぶき二階建ての適塾が残る。緒方洪庵二十九歳の時、開いた。

 一階は教室、客間、家族部屋、中庭に沿って洪庵の書斎がある。明かり取りの丸窓があり、オランダ本の翻訳をするその姿がしのばれる。二階は塾生が寝泊まりし自習した大部屋と蘭和辞書「ヅーフ」を置いていたヅーフ部屋がある。蘭書回読の予習をし、わからない単語の字引で、塾生がヅーフを奪い合ったと言う。

 姓名録に残る全国の塾生は約七百人。記録に残ってない者を含めると千人に及ぶ。福沢諭吉慶応大創立者、明治の兵制を確立した大村益次郎、長与専斎内務省初代衛生局長、佐野常民日本赤十字社初代総裁ら明治維新で活躍、近代日本の国づくりに参加した俊秀たち。

 県別にみると山口五十六人、岡山四十六人、佐賀三十四人、兵庫、石川、福岡三十三人、広島三十一人。

 岡山は大阪で活躍する郷土の偉人に新しいオランダ医学を学ぼうという春秋に富む若者たちだった。小寺陶平(笠岡)花房義質(岡山)横山謙斎(邑久)長瀬時衡(岡山)妹尾又玄(箭田)ら。十代から二十代で二~三年、研 鑽 ( さん ) をつみ、多くは故郷に帰り、医家となった。備中、備前、美作ではまだ漢方医が主流だったが、最新のオランダ医学で治療する蘭方医として活躍、人々の目を引いた。

 その一人、守屋庸庵は天保二(1831)年、岡山市大崎に生まれ、十六歳で適塾に学んだ。倉敷市西阿知町西原の守屋家に婿入りし、蘭方医として開業、外科、軟 膏 ( こう ) 治療、種痘を得意とした。洪庵が天然痘治療のため、足守除痘館を開設した時、二十歳の若き庸庵は活躍した。「洪庵は種痘法を伝授し信頼する庸庵を一人前の医師にしたかったのでしょう」と話すのは石田純郎新見公立短大教授。母が守屋家の出で、庸庵は母方の祖父の祖父になる。

 江戸時代、岡山市沼で代々医師を務めてきた津下古庵の家。津下精斎、嶋村鼎甫兄弟も適塾に学んだ。精斎は帰郷し岡山藩医学館二等教頭を務め、鼎甫は上京し東大医学部前身の大学東校教授になった。津下健哉広島大名誉教授は古庵の分家にあたる。岡山医大卒業、岡山大整形外科助教授から広島大教授に。「岡山の医師は郷土出身の洪庵を誇りに思い、医戒(代表作「扶氏経験遺訓」の中の「扶氏医戒之略」)を胸に秘めている人は多い。『名利を顧みず、己れを捨てて患者を救わんことをねがうべし』この洪庵の医戒の言葉は重い」と話す。

 洪庵は文久三(1863)年、江戸の医学所頭取屋敷で亡くなった。五十三歳。門人たちが活躍する明治維新を見ることはなかった。

 名医洪庵は吉田松陰と並び幕末の二大教育家と言われた。故郷岡山にまいた近代医学の種は明治に入り、芽を出し、木となり、仁を説いたその精神は脈々と岡山の医療の中核となって、今も流れている。

医家俊秀

 緒方(大戸)郁蔵(1814~1871)は井原市芳井町簗瀬生まれ。坪井信道に蘭学を学び、緒方洪庵の弟弟子としてともに江戸で学ぶ。適塾開設に参加、洪庵の右腕として活躍、二人は義兄弟の誓いをし緒方姓になる。洪庵の代表作「扶氏経験遺訓」の共訳者として知られる。大阪で独笑軒塾を開き、蘭学を教える。大阪大医学部前身の大阪医学校の開設に尽力した。緒方竹虎は孫。山鳴弘斎は同郷で坪井信道の同門。(敬称略)
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2005年08月02日 更新)

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