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第3回 岡山藩医学館 教授 生田安宅 県病院の維持に尽力

 生田安宅(1840~1902) 備前藩医の家に生まれ、難波抱節の子経直の医学塾で漢方を学び、抱節の乳がん手術も見学。京都の時習堂でオランダ医学を勉強後、藩主の侍医になり、三十一歳で岡山藩医学館教授。岡山県病院の初代院長として医学教育と診療にあたる。

生田安宅が受けた岡山藩医学館の辞令など

 明治三(一八七〇)年春、岡山藩医学館が岡山市門田、現在の東山公園に開設された。明治政府の方針に従い、外国人教師を迎え、岡山で初めて近代医学教育が始まった。

 約六十人の若い藩医と藩医の子弟たちが入学し寄宿生活をしながら、解剖、薬剤、病理、内科、外科、眼科、産科など十一学科の講義を受けた。

 教授陣は次の通り。

副督事

 田中玄順、榎養雲

医学監督

 明石退蔵、中村謙次郎教授方

 山川正朔、生田安宅、石坂堅壮

教授方試補

 津下精斎、平松 吉

御用係

 好本純蔵ら

兵学館二等教頭

 岡野松三郎

 主に年輩の藩医が教授になり、榎ら漢方医と田中ら蘭方医の入り交じった構成。適塾出身は田中、明石、中村、津下、岡野の五人。田中、明石、中村は創設の御用掛を務め、適塾出身が医学館の大きな柱だった。外国人教師ロイトルはオランダ軍医。解剖学を教え病院で診察した。

 しかし、開設一年後、廃藩置県。新しい地方行政組織・岡山県が発足する歴史の大きな波にあう。医学所に改称。さらに医学所、大病院は廃止、中之町の小病院だけに規模縮小。また医学所再建。生田安宅が責任者となり、医学所は中之町の小病院に移転合併し病院と改称。組織変更が相次ぎ、同五(一八七二)年、県費支給廃止。発足間もない岡山県は財政力が弱く、存続の危機に…。

 医学館創設に尽力した明石、好本らは軍医になり、病院医師も転出していった。

 残った医師は十数名。ここでリーダーシップを発揮したのが三十一歳の生田安宅だった。津下らと内科、外科の治療を続け、入院も受け、往診も行い、診察代金を稼いで懸命に病院を維持。県には医師養成機関の継続を訴えた。一年ほど耐え忍び、県費支給は復活した。病院で患者治療と医師養成が軌道に乗り、生田は同八(一八七五)年、正式に岡山県病院の初代院長に就任した。

 同十三(一八八〇)年、病院内にあった医学教場は岡山県医学校になり、東大医学部卒業の菅之芳校長が就任。同十七(一八八四)年、同市丸の内、旧内山下小の地に移転、第一期卒業生を送り出し、四年制、一学年定員百人、西日本最大の医学校になった。「生田安宅が風前のともしびだった病院を継続したからこそ、今日の岡山大医学部がある。最大の功労者です」と中山 沃 ( そそぐ ) 岡山大名誉教授は話す。

 岡山市田町で眼科を開業している生田啓吉医師(81)はひ孫になる。「まじめで良く勉強する人だったようです。代々、お殿様をみる侍医でしたので、守っていくという立場だから、経営が難しくなった病院で必死にがんばったのでしょう」。通った鼻筋、目のまわりは写真の安宅にそっくり。県病院長の辞令などは県郷土文化財団が所蔵している。


医家俊秀

 倉敷の蘭方医石坂堅壮(1814~1899)は1877年、農民の病理解剖を行い肝臓の新寄生虫を観察、医学雑誌に発表した。その6年後、県医学校長菅之芳ら4医学士がこの寄生虫は肝臓ジストマ(肝吸虫)であることを確認。堅壮は日本初の肝吸虫発見者となった。緒方洪庵とも交流があり、足守除痘館の時、牛痘苗を分け与えられている。出版社を経営したこともあり「博物新編拾遺」などの著書を残す。
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2005年08月03日 更新)

タグ: 岡山大学病院

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