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第5回 京都大総長 荒木寅三郎  倉敷中央病院開設 優秀な人材送り込む

 荒木寅三郎(1866~1942) 生化学講座の先駆者。岡山にあった第三高等学校医学部教授、京大医学部教授、京大総長を歴任。大原孫三郎の要請で倉敷中央病院の創設に協力、優秀な医師を送り込む。日本医師会会頭、学習院長、枢密顧問官。

岡山医学会創立50周年で講演する荒木氏=昭和14年、岡山医大講堂

 明治二十(一八八七)年、岡山県医学校は第三高等中学校医学部として存続が決まった。岡山市丸の内に校舎、県立病院を新築、後に第三高等学校医学部と改称した。

 同二十九(一八九六)年、荒木教授は岡山へ着任した。七年間のドイツ留学を終え三十一歳、新進気鋭の学者だった。推薦は北里柴三郎伝染病研究所長。医化学、生理学、衛生学を担当した。

 朝七時、教室へ出て、夜十時過ぎて帰宅、実験と研究に没頭する日々だった。その時の教え子に秦佐八郎、佐伯矩、斎藤精一郎らがいた。秦は梅毒の新薬サルバルサンを開発し世界的に評価された細菌学者。佐伯は国立栄養研究所初代所長で栄養学の先駆者。斎藤は岡山医大教授になり国内初の食道胃鏡を導入した。

 荒木は翌年、東京帝国大学医学博士の学位を授与された。全国最年少。そして岡山医学会副会長に推された。約三年半の岡山生活は充実し、京大教授へ栄転した。

 大正十二(一九二三)年、倉敷中央病院は開院した。山陽新報は半ページをつかって大きく報じた。

 「名士六百余名を招待」「欧米から取寄せた最新機器」「治療本位、心付は絶対受付けぬ」の見出し。写真は三角屋根の本館、ドイツ・シーメンス社から購入した最新レントゲン機器のある物理療法室など。顔写真は辻緑院長、七医長らが並ぶ。

 医長らは欧米へ渡り、最先端治療を学んだ。園芸主任は台湾へ行き緑豊かな熱帯植物の大温室の患者休養室を作った。

 開院式に大原孫三郎倉敷紡績社長と並んで荒木京大総長の姿があった。五十八歳、医学、大学の世界で押しも押されもせぬ実力者になっていた。辻院長と各医長を一人ずつ紹介し「これらの諸君が和衷協同する時この病院がその目的を達するはいとやすきだ」と励ました。

 「東洋一の病院をつくりたい」と大原が病院設立の構想を持ったのは五年前。一番に相談したのは荒木だった。大原は各界で活躍する一流の人々を招き倉敷日曜講演を開催。その講師として荒木を知り、積極的で、虚心坦懐に話す人柄に触れており、話を持ち込んだ。岡山医専教授をしていた島薗順次郎京大医学部長も加わり協議の結果、基本方針が決定。

一、現代医学の進歩にふさわしい完全な診療をするため、優秀な医師を求め、設備を整える

二、患者が心地よく療養できるように建築し、看護婦を養成する

 荒木は帝大医学部の誇りにかけ優秀な人材を送り込んだ。後に辻院長は長崎大教授、服部峻治郎小児科医長は京大総長、林雄造眼科医長は東北大教授となった。その関係は今も変わらず京大関連病院のトップに位置付けられている。大原謙一郎理事長は「荒木先生の雄渾な書を見るたび、東洋一の病院を作ろうとした孫三郎の気宇壮大な理想を感じる。原点を忘れずに良い病院づくりを進めたい」と話す。

 病院貴賓室。創立者孫三郎の遺影を飾り、その向かいに寅三郎の額「培其根」がある。漢詩人でもあった荒木の筆が今に残る。孫三郎の雄大な構想、寅三郎の力、二つが一つになって開院、今年創立八十二年になる。


医家俊秀

 岡山医大学長、岡山大学長を務めた清水多栄は京大医化学教室で荒木の教え子。清水記念体育館は岡大発展に尽力した徳を称え、名を付けた。

 倉敷中央病院を勤務後、大学教授になった医師は約35人、民間病院では異例の多さ。レベルの高さを示す。院長を務めた遠藤仁郎は青汁で知られる。光藤和明心臓病センター長は台湾の李登輝氏を心カテーテル治療して国際的に有名。(敬称略)
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2005年08月06日 更新)

タグ: 倉敷中央病院

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