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第6回 岡山医専教授 桂田富士郎  日本住血吸虫発見 世界注目の奇病解明

桂田富士郎(1867~1946) 石川県の金沢医学校を卒業。東大病理学の三浦守治教授の研究生となり第三高等中学校医学部講師、岡山医学専門学校教授。日本住血吸虫の発見で岡山医専の看板教授になり、帝国学士院賞を受賞した。

桂田の胸像と桂田の顕彰に尽力した小田院長

 百一年前、岡山市丸の内、旧内山下小学校にあった岡山医学専門学校の病理学研究室で世界の寄生虫学史に残る発見が行われた。

 明治三十七(一九〇四)年、桂田富士郎教授は三十七歳。当時、日本の医学者が多く学ぶドイツ留学を終え、東京大学医学博士の学位を授与され、学者としてまさに上り坂にあった。三年前、第三高等学校医学部から岡山医専に昇格、学内にも覇気があった。

 この年四月、二年前から肝 脾 ( ひ ) 肥大症の病原寄生虫を探究していた桂田は山梨県甲府市の三神三郎医師を訪ねた。

 広島県神辺町では片山病、甲府では「はらっぱり」と呼ばれる風土病があった。田植え時、水田に入ると足にかゆみがあり、腹水がたまり腹が太鼓のようにふくれ、肝臓、脾臓が肥大して、激しいと死亡する原因不明の奇病。医学的には肝脾肥大症と言われていた。山梨県で患者の死後解剖が行われ、その結果、胆管などに多くの寄生虫の卵を確認、原因はこの卵を生んだ寄生虫では…と病原の寄生虫発見が医学界の関心事になっていた。

 桂田は十二人の患者を診察し便検査し五人から問題の寄生虫の卵を確認。しかし肝心の寄生虫は不明。「犬、猫に寄生している可能性がある」と考え、三神医師宅の猫を解剖、内臓をアルコールづけにし、岡山へ持って帰った。

 五月二十六日、桂田は猫の肝臓をくわしく検査、門脈から細く小さい寄生虫を発見した。同時に寄生虫の卵も確認。これが、日本中、いや世界中の病理、寄生虫学者が血眼になって探していた病原寄生虫だった。

 その四日後―。京大の藤浪鑑病理学教授が広島県神辺町で死亡した人の肝臓の門脈から同じ寄生虫を発見した。長さ十七ミリ、卵がぎっしり詰まっていた。地元で片山病の治療と原因究明にあたっていた吉田龍蔵医師が藤浪に解剖を依頼、長年取り組んできた吉田の熱意が実った。

 桂田は病原寄生虫を「日本住血吸虫」と命名した。

 大正七(一九一八)年、桂田、藤浪両教授に「日本住血吸虫病の研究」で帝国学士院賞が贈られた。

 その後、治療薬が開発され、中間宿主であるミヤイリ貝の発見で撲滅は進み、国内では消滅した。東南アジアでは今なおこの病気に苦しむ患者がいる。

 昨年五月二十六日、岡山大医学部で桂田の胸像除幕式が行われ、ちょうど百年前の偉業をしのんだ。桂田の足跡、業績を原稿にまとめ、顕彰を提案した井原市井原町、小田晧二小田病院長は「睡眠三時間で研究に没頭した熱意、原因を究明したいという学者の使命感で偉業を達成。岡山医学会の誇りです」と話す。

 世界的な発見で多くの人々を病苦から救った名医であった。


医家俊秀

 菅之芳は明治13(1880)年、東京大学医学部を卒業しすぐに岡山県医学校長に就任、以後、第三高等中学校医学部長、岡山医学専門学校長の要職を33年にわたって務め、岡山の医学教育の基礎づくりをした。大正元(1912)年、菅は文部省に桂田教授の休職を求め、反発した生徒たちがストライキし菅の退職を要求、岡山医専騒動となった。結局、2人は退職、桂田は神戸で船員病・熱帯病研究所長として研究を続けた。(敬称略)
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2005年08月07日 更新)

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