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第7回 榊原病院院長 榊原 亨  心臓手術 岡山に専門病院開設

 榊原 亨(1899~1992) 日本の心臓手術の先駆者。福井県生まれ。九州帝大卒業、金沢医大助手、岡山医大外科助教授を経て外科榊原病院(現在心臓病センター榊原病院)を開設。岡山県医師会長、日本医師会副会長、国会議員を務めた。

日本の心臓手術研究の先駆者・榊原亨氏

 「下から一刺」「岡山局新築工事場のけんか」。昭和十一(一九三六)年十二月十七日、合同新聞(山陽新聞の前身)朝刊に二段見出しの記事がのった。今の岡山中央郵便局で男性が刺され、榊原病院で輸血したが危篤。

 この患者の治療をめぐって日本の医学史に残る大論争が行われる。

 榊原亨院長が駆け付けると、刃物が左胸に刺さったまま。聴診器を当てたが心臓の拍動音が聞こえない。病院の手術室へ運び、局所麻酔し、刃物を抜き、傷口を少し開けた途端、血が吹き上げた。その直後、心臓が動き出した。傷口を縫おうとするが、切りさかれた筋肉は針が通らず、縫合をあきらめ、ガーゼを重ねると出血は止まった。手術室は血の海だった。この方法で世界初の救命。

 戦前、外科で心臓に手を出すのはタブーだった。動き続ける心臓の治療法は確立されてなかった。人工心肺が考案され、血液を体外循環し、その間に手術するようになるのは昭和三十年代。

 榊原は犬で心臓の実験を始めた。同じ切り傷をつくりガーゼをまくと全部治った。ガーゼを使わない犬は出血死した。翌年、日本外科学会で報告した。大阪帝大の小沢 凱 ( よし ) 夫 ( お ) 教授が「心筋に刺し傷が出来ても、閉じやすいのでガーゼでまくような処置は必要ない」と厳しく反論。榊原は実験データを示したが平行線。二人の四年に及ぶ論争の始まりだった。

 亥年生まれ、行動力があり、負けず嫌いの榊原は前にも増して動物実験に取り組み、心臓研究にのめり込む。二年後、世界初の心臓鏡を開発した。心臓内部を撮影し上映した。一方、小沢教授は血管をくくって心臓の拍動を止め二分半以内に弁膜手術を終える犬の手術映画を見せた。二人の論争は外科から心臓外科への道を開く。

 昭和十八(一九四三)年、日本外科学会は榊原、小沢両氏に「心臓外科」と題して宿題報告させた。テーマを一年前に与え、最も権威ある大学教授が報告するのが通例で、民間病院長は初めて。佐野俊二岡山大心臓血管外科教授は「この論争が日本の心臓外科の幕開けとなり研究が進んだ。開業医であった榊原先生の熱意は心臓手術の先駆者と呼ぶにふさわしい」と言う。

 戦後、榊原の心臓病への情熱は衰えず、心臓専門病院の道を選択した。手術医を養成、心臓手術を次第に増やし、先天性心疾患、弁膜症など三十年代後半には年間百例を越えた。心臓病研究は実弟の 仟 ( しげる ) に託した。東京女子医大教授で心臓手術の第一人者として活躍した。

 今はバイパス手術、心カテーテル治療が中心になり、平成十四(二〇〇二)年、榊原病院の心臓手術は通算一万例を突破、日本有数の心臓病センターに育った。

 「心臓病の患者を救いたい」―亨の願いは弟や子供たちが受け継ぎ、最新の医療設備で治療されている。患者をご病客と呼ぶ亨の患者本位は今も続く。


医家俊秀

 三人の弟は周(まこと)、仟、宏ともに医師。周、宏は榊原病院を守った。現在理事長の長男宣(のぶる)は東京女子医大教授(消化器外科)順天堂大教授、岡山市病院事業管理者として尽力した。名誉院長の喜多利正(循環器)畑隆登(心臓血管外科)は岡山の心臓病治療の長老格。岡 悟院長は心臓病を引き起こす糖尿病治療が専門、心臓バイパス手術は吉鷹秀範副院長、杭ノ瀬昌彦心臓血管外科部長、南一司外科部長ら、心カテーテルは山本桂三循環器科部長、村上正明内科部長、不整脈を治療する心筋焼しゃく術は日名一誠副院長、山地博介内科部長らが担当。(敬称略)
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2005年08月10日 更新)

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