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第8回 岡山大耳鼻科教授 高原滋夫  アカタラセミア 医学常識を覆す発見

 高原滋夫(1908~1994) 東大、京大、九大など帝大出身が主流だった岡山医大教授に初めて同大卒業生で教授(耳鼻科)に就任。小学校、中学と飛び級で卒業した秀才。「アカタラセミア」の発見、国内初の難聴学級開設で日本学士院賞、文化功労者に選ばれた。

小さな異常を見逃さず世界的発見をした高原教授

 昭和二十一(一九四六)年、高原は母校岡山医大の教授になった。三十八歳。就任直後、医学的大発見のチャンスに出会う。

 十歳の女の子を手術した。 壊疽 ( えそ ) 性 口腔潰瘍 ( こうくうかいよう ) 。病変部を切り除き、消毒のオキシフルをかけた。普通、白いあわが出るが、黒くなった。あわも出ない。看護婦が硝酸銀のびんと間違えたと思い別のびんで試みたが、また黒。とうとう四度目、薬局から封を切ってない新品を取り寄せたが、黒。

 「おかしい……」。付き添いの家族を呼んであれこれ聞いた。七人兄弟で兄が同じ手術を受けていた。すぐ血液採取しオキシフルをかけてみると、黒くなった。残りの兄弟も調べた結果、合わせて四人が黒くなった。「血液に異常がある」「遺伝疾患か」と考えた。突き詰めて考える 質 ( たち ) の高原はチャンスをつかんだ。小さな異常を見逃さず、血液検査をしたのは科学者であり、病変部保存する医学徒だった。

 なぞの新疾患の究明に乗り出した。「血液の異常の本質は何か」―オキシフルは過酸化水素液であり、過酸化水素と関係深い二つの酵素と問題の血液の関係を実験し、カタラーゼ酵素が欠如していることがわかった。手術を手伝った高松市花ノ宮、宮本久雄医師(81)が二年間、毎日実験に明け暮れた努力の賜物だった。「毎夜、図書館の外国文献を読みあさり、カタラーゼ酵素を勉強。その特性を知り、実験で欠如を証明できた時は天にも昇る思いでした」と回想する。

 高原は酵素名カタラーゼとエミア(血液病)を一つにしてカタラセミアにし、頭にア(無)をつけて学名「アカタラセミア」(カタラーゼ酵素の無い血液病)とした。

 カタラーゼ酵素は赤血球に最も多く、体内で生産される有害な過酸化水素を水と酸素分子に分解し体を守る絶対不可欠の酵素と言われていた。それが無い病気 ―医学上考えられない大ニュースだった。

 同二十四(四九)年、耳鼻咽喉科の専門誌に「血液『カタラーゼ』欠乏による歯性進行性壊疽性 顎 ( がく ) 炎の臨床的並びに実験的研究」と題して発表した。しかし、あまり反響もなく、外国へ送った論文は信用されず、送り返されてきた。

 医学常識を覆す生存例の発見。納得してもらうにはアカタラセミアの追加例が出ることだった。岡山医大卒の耳鼻科医を通して追加例発見を依頼していたところ、倉敷、高知、東京から同じ症例の報告が入った。これで高原の発見は証明された。

 同二十七(五二)年、英国医学誌ランセットに掲載され、反響を呼び、世界に認められた。同三十四(五九)年、日本医学会総会で講演の機会が与えられた。最初の発表から十年たっていた。

 高原の発見を契機に、その後の研究でカタラーゼ酵素がない場合、他の酵素が代替機能し、人体活動を行うことが判明した。

 小さな異常から世界的発見をした名医は米国留学で帽子、パイプたばこを愛用するダンディー。手話のできる患者に優しい耳鼻科医。色紙に「慈悲即医心」と書いた。


医家俊秀

 岡山大の緒方正名名誉教授(公衆衛生学)はアカタラセミアを共同研究し著書「カタラーゼと無カタラーゼ血液症」を出版している。

 教え子約百五十人が中四国で活躍している。岡大耳鼻科教室の増田游名誉教授は扁桃とIgA(免疫抗体)腎症の研究を続けている。西崎和則教授は中耳炎手術で聴力改善、岡野光博助教授は免疫・アレルギーが専門で花粉症の原因究明と治療、福島邦博講師は高原の研究を受け継ぎ、新生児難聴のスクリーニング、遺伝子解析、人工内耳手術に取り組む。 (敬称略)
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2005年08月14日 更新)

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