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第9回 川崎学園理事長 川崎祐宣 戦後初の医大創設 岡山で三つの夢実現

 川崎祐宣(1904~1996) 鹿児島県生まれ。川崎病院(岡山市中山下)を県内有数の総合病院にし、それを母胎に五十三歳で社会福祉施設旭川荘を開設、六十六歳で戦後初の私立医科大・川崎医大を開学した。医療と福祉、医学で大きな足跡を残した。岡山県名誉県民。

医療、福祉、医学で三つの夢を実現した川崎理事長=名誉県民顕彰式

 昭和二(一九二七)年岡山医大へ入学した。「京大へ入れず泣く泣く岡山へ来た」―二十三歳の新入生は晩年、笑いながら話した。

 生涯の友に出会う。高原滋夫、村上栄。医学を学び、庭球、乗馬で汗を流し、酒を飲み、議論した青春の日々。四年後、川崎は同郷の津田誠次教授の下で外科、高原は田中文男教授を慕い耳鼻科、村上は細菌学教室へ。その時、村上と同じ教室へ入ったのが三木行治簡易保険健康相談所医師。丸顔にチョビひげ、川崎の一つ上の二十八歳。すぐに、三人が四人になっていく。

 岡山医大津田外科で鍛えられ、岡山市立病院外科医長に。さっそく三木は紹介状を添えて手術患者を回してきた。二人は治療費にも困る貧しい人々を知り、その味方になる。

 「年中無休昼夜診療」の外科川崎病院を開設したのは三十五歳、念願の開業だった。しかし岡山空襲で全焼。耳鼻科を借りたり、民家を移築し懸命に再建。病院を大きくすることに専念した。

 同二十六(一九五一)年、岡山県知事選で三木行治当選。あの簡易保険健康相談所医師は厚生省で出世し公衆衛生局長になっていた。固辞する三木、再三出馬を促す川崎、村上ら。社会党の国会議員山崎始男も加わっていた。とうとう折れて帰郷。激しい選挙戦を勝ち抜いた。四人が再び岡山にそろった。高原は耳鼻科教授、村上は微生物学教授になっていた。

 同三十二(一九五七)年、旭川荘開設。肢体不自由児施設、知的障害児施設、乳児院が開園、小児科医江草安彦、整形外科医堀川龍一が施設長になり、障害児に医療の光を当てた。国有地の占用許可に三木が奔走し、川崎の夢は一つ実現した。

 同三十九(一九六四)年悲しい別れがあった。四選した三木が救急車で川崎病院へ入院、心筋 梗塞 ( こうそく ) で死去。六十一歳。歯科大建設計画のリーダーは倒れた。東京五輪の聖火が岡山に着いた日だった。

 同四十一(一九六六)年、九階建ての成人病、がんに対応する川崎病院(八百床)が完成した。川崎は「三十年近くかかって、私の夢の病院が実現した」とあいさつ、六十二歳だった。旭川荘と総合病院、二つの夢は実現した。しかし、これで終わらなかった。夢は続く。

 岡山県は歯科大計画地に医科大をつくってはどうかと打診してきた。調べて見ると医大創設には設立資金五十億円の半額の自己資金、付属病院建設など多額の資金が必要だった。しかも文部省は医大新設に慎重。「困難だが不可能ではない」と強気に判断した。医師不足は深刻で無医村が多かった。医学部から大学紛争が起こり自分の理想とする医大づくりへ思いは高まる。年間五十回上京し文部省へ陳情、説明を繰り返した。教授陣確保、校舎建設すべてが大変だった。

 同四十五(一九七〇)年、川崎医大は倉敷市松島に開学した。建学の理念は

 「人間をつくる」

 「体をつくる」

 「医学をきわめる」

 川崎の歩んだ人生から生まれた言葉だった。新入生百二十一人が入学、理事長に就任した川崎は「仁術に生きる真の良医を育てたい」とあいさつ。「この悲願は故三木岡山県知事長逝のころに端を発し」と名前をあげ、先輩の恩に感謝の気持ちを示した。念願の医大開学に万感の思いがあった。高原、村上は理事席から学友の晴れ姿を見ていた。

 友情は終生続いた。

 川崎明徳理事長は「六十歳を越え医大創設への父の情熱はすごかった。夢を実現する強い人でした」と話す。

 酒を愛した薩摩隼人。座右銘は西郷隆盛の「敬天愛人」。


医家俊秀

 川崎明徳川崎学園理事長は外科、日本私立医科大学協会会長。川崎誠治副理事長は外科。植木宏明医大学長は皮膚科。角田司病院長は消化器外科。岡田喜篤医療福祉大学長は精神医学。守田哲朗医療短大学長は小児科。旭川荘理事長の江草安彦医療福祉大名誉学長は川崎祐宣を語る会を開催している。川崎病院は三男川崎祐徳川崎医学振興財団理事長(外科)が経営している。(敬称略)
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2005年08月15日 更新)

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