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第11回 国立岡山病院院長 山内逸郎 新生児医療 死亡率の低さ全国一に

山内逸郎(1923~1993) 岡山医大卒業、国立岡山病院小児科医長に就任。新生児医療に取り組み、一九七七年、岡山県の赤ちゃん死亡率の低さは乳児(生後一年未満)新生児(生後四週間以内)周産期(妊娠二十二週以降から生後一週間)三部門で日本一を達成、三年連続三冠王。その推進役を果たした。

「病気から逃げるな。すぐ手を打て」と言い、自ら実践した山内院長

 昭和二十七(一九五二)年、国立岡山病院小児科医長として赴任した。岡山県は赤ちゃん死亡率が高く、全国平均を上回っていた。岡山医大小児科教室で県北の乳児検診をし、実情を知っていた山内は「低出生体重児を救命すれば死亡率は下がる」とし、さっそく取り組んだ。

 低出生体重児は体重2・5キロ未満、1・5キロ未満は極小低出生体重児、1キロ未満は超低出生体重児。山内は集中治療する部屋を作り、産科の保育器を借り、新しい保育器を買い足し、低出生体重児が産まれたという連絡が入ると院長車を借用し酸素ボンベを積んで駆け付け、ドクターズカー搬送体制を確立した。わずか一年で低体重の新生児医療の拠点を築いた。

 三年後、ニューヨーク州立大へ二年留学。最先端の新生児医療を展開するシカゴ大、コーネル大、人乳銀行、半脱脂乳、進んだ科学技術の診断機器―見る物すべてが山内には刺激的で「岡山に帰ったらこうしよう」と帰国後の取り組みへ構想はふくらみ、研修に励んだ。

 同三十三(一九五八)年、木造の国立岡山病院建て替えが決まり、米国で集めた低出生体重児センターの図面、写真が役立った。感染防止のため空気を循環させない空調にした。白熱灯では 黄疸 ( おうだん ) の程度がわかりづらく、蛍光灯では適さず、太陽光に近い室内灯にした。完成した施設は世界最高水準と自負した。

 最新施設で医療陣の努力が始まった。低出生体重児は肺機能が弱い、酸素が不足、保温力も低い、黄疸がある―などのリスク要因を抱えている。異常があるとすぐに判断し処置しないと死が待っている。「病気から逃げるな」。山内は若い医師を 叱咤 ( しった ) 激励し、先頭に立って治療し、救命率を上げた。

 同四十三(一九六八)年、新生児死亡率の低さが全国一になった。四十五歳だった。やっとひと山越えた感じだった。九年後には乳児、周産期を加えた三部門で日本一。三年連続三冠王の快挙を成し遂げた。いまだに破られない記録だ。「赤ちゃん王国・岡山」と言われ、国立岡山病院を核に愛育委員、保健師らのネットワークの構築が功を奏した。「低出生体重児救命で死亡率を下げる」―二十代の新任医長が決意して二十五年の歳月が過ぎていた。

 晩年、山内は母乳運動に打ち込んだ。産後すぐから母親の初乳を与えると髄膜炎、敗血症などの感染症の予防効果があった。病院で産まれる赤ちゃんはすべて母乳に切り換えた。「母乳は安全で抗感染効果があり、授乳することによって母と子のきずなを深める」と講演して回った。著書「母乳は愛のメッセージ」を執筆した。名医は文章家であり、座談の名手でもあった。

 平成三(一九九一)年、すでに名誉院長になっていた山内に大きなプレゼントが届いた。WHO(世界保健機構)の「赤ちゃんにやさしい病院」1号に認定され、世界の名医になった。

 岡山医療センターの青山興司院長は「赤ちゃんの生理学、病理学に精通し治療する科学的臨床医。体力のない新生児に負担をかけずに検査する経皮黄疸計などの発明家。そして何より子供大好きの小児科医でした」と語る。

 見事なキングズイングリッシュを話し、岩波文庫読破の博識、カメラとクラシック音楽を愛す、知と情の人だった。 (おわり)



医家俊秀

 国立岡山病院は岡山医療センターと改称。青山興司は小児外科の先駆者。川崎医大教授を務めた後、院長になり今もメスを握る。同センター臨床研究部長山内芳忠は新生児医療、備前市で開業した駒沢勝は小児血液病、重井医学研究所付属病院長の瀧正史は小児腎臓病、厚労省中国四国厚生局臨床研修審査官市場洋三は小児内分泌、岡山市で開業している佐藤幸一郎は小児感染症が専門。教授は尾内一信川崎医大、岡村均神戸大、羽田明千葉大の三人。今も山内イズムは生きている。(敬称略)
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2005年08月17日 更新)

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