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第5回 被爆者医療 広島逓信病院長 蜂谷道彦 疫学調査を陣頭指揮

机の上に本を置き、話好きだった蜂谷院長

 昭和二十(一九四五)年八月六日、広島に原爆が投下された。広島逓信病院(広島市中区東白島町)の蜂谷道彦院長は約三百メートル離れた自宅で被爆、ガラスなどの破片が突き刺さり血だらけになりながら病院へ駆けつけ、自ら治療を受け、被爆者治療の陣頭指揮をした。被爆特有の症状、難航する医薬品調達。内科医として、院長として五十六日間を記録した「ヒロシマ日記」(法政大学出版局)によると―。

 「太股につきたった棒切れを引きぬいた。 頬 ( ほほ ) に穴があき、下唇が二つに割れ片方がぶらさがり、首の右側に大きな 硝子 ( ガラス ) 」(八月六日)。

 見渡す限り火の海。二階建ての病院はコンクリートだけ残った。修羅場の中で懸命に治療する医師、看護師、事務職員。蜂谷も顔、手足など三十近い傷の縫合を受ける。重症患者ら約百五十人で院内は足の踏み場もなく外庭にも五十人ほど。全身 倦怠 ( けんたい ) 、 嘔吐 ( おうと ) 、下痢、血便の症状、皮膚に出血斑の人も、と書く。

 「火傷外傷ばかりと思っていたが、必ずしもそうでない。細菌爆弾か 瓦斯 ( ガス ) 弾か」(九日)。

 「一日早く抜糸」(十一日)。蜂谷は動けるようになり、さっそく院内回診。患者の病床録作りを始め、症状、臨床所見を記録するよう医師に指示。

 「原爆である限り研究すれば必ず新事実が出る。苦しい中に楽しみを見出した」(十六日)。人類初の放射能被害に直面した四十二歳の内科医は、新しい研究対象に闘志を燃やす。

 「白血球の減少は市の中央寄りで被爆した者が 甚 ( はなは ) だしい。被爆位置と白血球数、障害の関係を調査することにした」(二十二日)。実態把握が進み、蜂谷は疫学調査へ的確に判断を下した。

 田辺剛造岡山大名誉教授(整形外科)は証言する。「私は岡山医大の三年生、広島が大変だということで二十日ごろ、医師二人、学生二人、看護師三人で救援活動に行き、広島逓信病院で蜂谷院長に会いました。全身傷だらけでしたが、元気に診療されていました。白血球を勘定してみいと言われ、原爆症の特徴を教えてくださいました」。

 「大量の腹膜下出血」(二十六日)。「死因はすべて出血のためであった」(三十一日)。玉川忠太岡山医大助教授兼広島医専教授が病院で病理解剖した結果。放射能で血液組織が破壊され、凝固機能を持つ血小板減少が考えられたとある。

 九月になると原爆症の調査研究をまとめる様子が書かれる。二百例余りを爆心からの距離、被爆位置と白血球数の関係を地図にし、結果を発表した。爆心五百メートル以内で戸外の者は即死または数日後死亡。五百―千メートルは少し遅れて発病、大部分は死去。本症の特徴は臨床上白血球の減少が主なり―。新聞記事にもなった、などと記述。

 同病院へ勤務していた赤枝郁郎榊原病院常勤顧問は宮崎で終戦。原爆投下を聞き九月、駆けつけた。「私は解剖の記録係をした。蜂谷先生はまだ火傷 痕 ( あと ) もあった。そんな体で治療に追われていた。原爆症治療にあたった臨床医の生の声と科学的データを残した、その意義は大きい」と話す。

 ヒロシマ日記は世界十八カ国で翻訳され、欧米の人々に被爆の実態を知らせ、感動を呼んだ。そして一方では人類への警告の書となった。蜂谷はその印税で被爆孤児らに奨学金を贈る広島有隣奨学会を設立した。

 同四十一(一九六六)年八月十五日、蜂谷は広島逓信病院長を辞職、故郷岡山へ帰った。 刎頸 ( ふんけい ) の交わりだった三木岡山県知事は三年前、心筋 梗塞 ( こうそく ) で急死していた。晴れた日は散歩し、読書 三昧 ( ざんまい ) 、タイプライターで海外の知友に手紙を打つのを楽しみにしていた。七十六歳で生涯を閉じた。

 (敬称略)
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2006年09月06日 更新)

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