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第8回 森永ヒ素ミルク解明 浜本英次 治療法示し拡大防止

小児科医の人生を貫いた浜本

 「人工栄養児に奇病」「肝臓がはれ貧血―原因不明、一人死亡」昭和三十(一九五五)年八月二十日、山陽新聞夕刊トップ記事。森永ヒ素ミルク中毒事件が明るみに出た最初だった。

 実はこの年六、七月ごろから、肌が黒色になり、肝臓がはれ、腹部がふくれるなどの症状を見せる赤ちゃんが相次いで岡山大病院、岡山赤十字病院、国立岡山病院などを訪れていた。

 「岡山県における粉乳 砒 ( ひ ) 素中毒症発生記録」(岡山県)によると―岡山大小児科教授浜本英次が最初に診察したのは七月二十三日だった。白血病、肝腫瘍、敗血症、流行性肝炎などを疑ったが、確定診断に至らず、死亡。さらに数例診察し「一般の小児疾患でなく、何か特異な疾患」と判断した。

 患者は増え続けた。浜本はいろいろな症状を見せる幼い患者たちに対し、その奥にひそむ原因疾患がつかめず、苦悩し、追い込まれていく。治療にあたる医師たちは森永の粉乳を飲んでいる赤ちゃんが発症していることに気付いた。容赦なく迫ってきた新しい事実。ことの重要性に浜本は考えをめぐらした。

 粉乳による集団中毒か。慢性中毒により皮膚が黒くなると言えば重金属の可能性がある。鉛か、水銀か、ヒ素か…。薬理学教授にヒ素中毒の本を借り、読み、ヒ素中毒に間違いないと考えるに至った。八月二十二日法医学教室へ粉乳を届け、ヒ素検出を依頼した。

 翌日、法医学教室がヒ素検出。顕微鏡で確認できた。大森誠岡山県衛生部長に報告。再検査も同じ結果になり、二十四日、浜本が記者発表。「患者の症状はヒ素の慢性中毒症状に一致、飲用している森永MF粉乳の中にヒ素が検出された」

 急転直下の解明―。新聞報道で多くの母親らが不安になっていたが、その四日後、原因を突き止めた。治療も重金属中毒に効果があるbal注射が有効と指示した。

 翌日からヒ素中毒ではないかと診断、治療を求める母子で病院はあふれた。

 西日本で死者は百三十人を超え、患者約一万二千人、成人後、後遺症に悩む患者も多く、患者救済が社会問題になった。日本小児科学会の歴史に残る集団中毒事件だった。

 土壇場で迅速、果敢に動き、浜本は医学者として底力を発揮した。当時、小児科医局員だった江草安彦旭川荘理事長は「報道前から原因究明に乗り出し、ヒ素検出の早期解明に導いた浜本教授のリーダーシップは的確でした。bal注射が有効と治療法まで示した。究明が遅れていれば、被害はさらに広がっていたかもしれない」と話す。

 この時、浜本は五十二歳、大学教授として働き盛り。京大時代、重金属の鉛中毒症乳児を治療し、論文を書いていた。

 三十八歳で岡山医大教授に就任、岡山空襲をしのぎ、戦後いち早く、研究体制を整えた。乳児栄養、脳性小児まひ、重症心身障害児の系統的研究などで研究業績をあげ、多くの俊秀を育てた。ビタミンB1のメカニズム、腸管吸収で山内逸郎国立岡山病院長、井田憲明広島女学院理事長、ギラン・バレー症候群で藤原弘岡山県医師会長、小児ウイルス疾患で喜多村勇高知医科大学長、小児てんかんで大田原俊輔岡大教授、小児栄養で守田哲朗川崎医大教授ら。

 哲学、科学、仏教など知識は幅広く博覧強記。岩波文庫を愛読した。小児科医は子どもを育てる教育家、人生を考える思想家、子どもの権利を擁護する法律家であれ、と教え子に説いた。

 一線を退いた後、岡山保健所の三歳児健診、旭川児童院の障害児診療を約二十年間、ボランティアとして奉仕、小児科医の人生を貫いた。
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2006年09月14日 更新)

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