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第9回 岡大脳神経外科教授 西本 詮 ( あきら ) モヤモヤ病 原因究明 研究リード

モヤモヤ病で海外に知られる西本

 昭和二十五(一九五〇)年、西本詮は外科医の道を選び岡山大第一外科に入局。陣内傳之助教授は戦後、中四国初の脳外科手術を始めた人だった。

 フルブライト留学生試験に合格。二十七歳の旅立ちはフィラデルフィアのペンシルベニア大学だった。研修目的に「脳神経外科」と記入、医師としての専門を決めた。日本の脳神経外科は 黎明 ( れいめい ) 期。まだ外科の一部にとどまり診療科もなく、専門医も数えるほど。治癒率も低く、手術中の死亡が多かった。アメリカで世界最先端の脳神経外科を学び、手術手技を身につけようと勉強が始まった。

 西本は毎週四、五例の手術に参加、驚きの連続だった。グロフ教授はメスさばきが見事で脳手術の名手、患者はほとんど死ななかった。豆腐のようにやわらかい脳は、破れやすく、血管もちぎれやすい。 緻密 ( ちみつ ) にメスを進める手術症例数の豊富な専門医の腕を見て、手技を目で盗んだ。三例の手術執刀も経験し、一年四カ月の留学を終えた。

 アメリカの脳手術を経験して帰った西本は脳 腫瘍 ( しゅよう ) 、てんかん、頭部外傷などの手術をまかされ、岡大第一外科の脳外科部門の柱になっていく。

 マイカー時代の到来で交通事故の頭部外傷、高齢化による脳卒中が多くなり、脳神経外科の研究、治療が急務になる。同三十八(一九六三)年文部省は東大、二年後に京大、北大、三年後に岡大、九大に脳神経外科を開設した。西本は佐野圭司東大教授、半田肇京大教授らと脳神経外科講座のパイオニアとして学会で活躍する。

 四十歳の新任教授西本のライフワークはモヤモヤ病。日本脳神経外科学会で全国の大学病院などから九十六例を集め分析、小児は運動まひ、成人はくも膜下出血で発症することが多く、原因は脳血管奇形(先天説)、血管 閉塞 ( へいそく ) に伴う副血行路など(後天説)の二説にわかれると発表、学会の大きなテーマになったモヤモヤ病研究をリードした。

 パリで開かれた国際神経放射線シンポジウムで加藤俊男慶応大放射線教授がNishimoto and Katowの名前で、日本人に多い脳疾患として、九十六例を英文スライドで発表、モヤモヤ病とともにプロフェッサーニシモトの名は広まった。

 フランス神経学会雑誌にレンヌ大学のシモン教授が「Maladie de Nishimoto」(西本病の一例)と論文発表した。これを皮切りに欧米の医学誌に西本病(モヤモヤ病)と表記する論文が十編を超えた。

 モヤモヤ病の手術法として詰まった血管にバイパスをつなぎ血流を確保する治療法を導入。同五十三(一九七八)年、イタリアの少女パオラちゃんが西本を頼って来日、脳の左半分、二年半後に右半分を手術。寝たきりだったが、帰国後立って歩く写真が届いた。今もクリスマスカードが届いている。

 同六十(一九八五)年、学者の国会・日本学術会議の会員に選ばれ、三期九年つとめた。

 生涯脳手術二千例。平成三(一九九一)年岡山大を退官、香川労災病院長に就任した。ボート、野球を楽しみ、医学部レガッタでは旭川を走るボートを川岸から走りながら声援した。酒と漢詩は父計三譲り。クラシックは学割で聴いたフィラデルフィアオーケストラに始まる。

 同窓のまじわりは六十五年過ぎ今も続く。旧制中学・六高と一緒だった金川千尋信越化学社長、澤村治夫三井化学社長、藤村正哉三菱マテリアル社長らとは杯を傾け、青春の日々の友情が絶えない。

 (敬称略)
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2006年09月18日 更新)

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