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第3回 岡山大学学長 清水多栄 胆汁酸の研究 肝臓生合成 初の仮説

学士院記念賞受賞の記念講演する清水=「俯讀餘香」から

 「胆汁酸の化学と生理」(研精堂印刷所)とドイツ語で書かれた赤茶けた紙箱。中から本を取り出し、紺色の布張り表紙をめくると「昭和拾壱年六月 清水多栄」墨のあとも鮮やかな筆遣いでしたためてある。岡山大医学部旧生化学教室に残るこの一冊に大正、昭和の胆汁酸研究の大きな足跡がしるされている。

 大正四(一九一五)年京都帝大を卒業し荒木寅三郎教授の医化学教室に入り、胆汁酸の研究を始めた。胆汁酸は腸管で脂肪の吸収を助け、コレステロールの最終処理物質となる。当時はその働き、正体が解明されておらず、世界の医学者がしのぎを削っていた。五年後、ドイツ・フライブルグ大学のヴィーランド教授の下へ留学した。二十年かけて胆汁酸の化学構造を解明し一九二七年ノーベル賞を受賞した大家。ここで三年間、研究に打ち込み、帰国し岡山医大教授に就任した。

 三十四歳、馬力のあった清水はヒキガエル四千匹、イモリ十万匹、さらにクマ、魚、鳥、豚など多くの動物から胆汁を採取、胆汁酸が結晶するのを待ち、分析し、化学構造を決定する作業に取り組んだ。その結果、ガマ、食用カエルからは人間の胆汁酸より炭素数の多い高級胆汁酸(ガマ酸)やその前駆体の高級胆汁アルコールを発見した。漢方薬で知られる 熊胆 ( くまのい ) の主成分ウルソデオキシコール酸も発見した。

 岡山着任以来十二年間の研究成果をドイツ語でまとめたのが「胆汁酸の化学と生理」だった。清水は緒言で「私は動物によって各種の胆汁酸があることを発見した」と発表、胆汁酸の生成、作用にも触れている。胆汁酸は肝臓で生合成されると仮説を発表したのも清水が世界初だった。

 昭和十一(一九三六)年出版、世界的レベルの研究成果と評価され、二年後、帝国学士院東宮御成婚記念賞を受けた。孫弟子の大森晋爾岡山大名誉教授は「世界最先端のヴィーランド教授の所へ二度留学しそれに負けない研究を岡山でしていた」とたたえる。

 受賞した後に「俯讀餘香」を出版した。「胆汁酸の化学と生理」を内外の研究者に送り、その礼状に書かれた感想を本にした。荒木、秦佐八郎、佐々廉平ら国内百七十五人、オットー・マイヤーホーフハイデルベルグ大学教授ら十三人のノーベル賞受賞者ら海外から百二十九人、 錚々 ( そうそう ) たる顔ぶれがそろった。巻頭には学士院記念賞受賞祝賀会、記念講演、受賞メダルなどの写真がある。

 五十一歳で岡山医大学長になりその後、広島県立医大学長、岡山大学長を務め、在職中に心筋 梗塞 ( こうそく ) で急死した。死後、顕彰記念会が教え子、県民から募金を集め、清水記念体育館を建設しその名を残した。

 岡山大医学部正門を入るとすぐ右に清水ゆかりの旧生化学教室棟がある。玄関の壁に清水のブロンズ肖像があり丸い穏やかな顔が人柄を感じさせる。昭和初めのタイル張り三階建ては風格がある。前の教室を火事で消失、手元にあった自宅新築資金を教室再建につぎ込み階段教室、講堂、動物手術室、標本室などがあり、清水のアイデアを取り入れ、当時では最先端の教室だった。

 「胆汁酸の化学と生理」の裏表紙を開けるとペンで「昭和41年9月26日 寺岡森太郎氏寄贈」とある。清水が出版記念に助教授だった寺岡に贈り、寺岡が教室に寄贈、今に残る。福山市に住む長男の寺岡宏寺岡整形外科病院理事長は「岡山の四番町の大きなお屋敷へ私は下宿し医大へ通った。昔の大名のような感じの人でした。優しいが、研究には厳しかった」と話す。(敬称略)
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2007年06月04日 更新)

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