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第5回 杏雲堂病院長 佐々廉平 腎臓学会創立 症状別の治療法示す

腎臓病診療の先駆者佐々廉平=杏雲堂病院提供

 「私は作州津山市の在に明治十五年十月十五日に生まれました。郷里は湯郷という小さい山間の温泉町です」という書き出しで始まる「診療50年の体験」(緒方書店)は佐々廉平の一代記。湯郷尋常小、勝間田高等小卒業、津山中学に入学したが「医者になれ」と父親に言われ退学。静岡県で開業していた親類の眼科医に寄宿。内務省の医術開業試験に備え本で独学し、前期試験に合格した。後期試験は臨床の学科、実地があり、済生学舎、慈恵会医学校に学び、それも合格。十八歳だった。

 鎌倉市に住む長女橋本松子さんは「山の中の湯郷を出たのが十五歳前、東京で医術開業試験に合格するまでの三年間は本当によく頑張ったと思います。父は頭が良くないから努力したと言っておりました」。

 医師開業免状は二十歳にならないともらえない。年が足りない。一念発起し一高、東京帝大へと進み、内科教室(青山胤通教授)に入局、内科医の道に入った。国費でミュンヘン、ウィーンへ約二年半留学、最先端の治療医学を身につけて帰った。

 大正三(一九一四)年、東京・神田の名門杏雲堂病院は洋行帰りの佐々のため、心臓・腎臓・新陳代謝科を新設し、科長として迎えた。呼吸器科、胃腸科に次いで三番目の診療科。血糖測定、尿検査、タンパク反応などの診断技術にたけ、糖尿病、ネフローゼ、高血圧、通風、心筋 梗塞 ( こうそく ) 、脳卒中の治療にはくわしかった。国内でも数少ない心臓、脳卒中、腎臓の専門医として注目された。

 もう一つ、待っていたのは結婚。三十二歳になっていた。新婦は母校の衛生学・細菌学教室の初代教授緒方正規の長女春子。緒方は帝国大学令により初めて任命された七人の医科大学教授の一人。日本の衛生学の開祖、医科大学長もつとめた大物。ちなみに緒方の二男益雄は岡山大衛生学教授、孫の正名は公衆衛生学教授を務めた。

 学識の高い臨床医として一目置かれ、三年後、日本内科学会で「新陳代謝病」と題して宿題報告をした。それから五年後には「腎臓疾患之病理及療法」を出版した。日本語で書かれた初めての腎臓病専門書。腎臓病治療八年の経験をもとに慢性腎炎など症状別に治療法を具体的に書き示した。「戦前の日本では腎臓病の治療法を最もくわしく書いた名著」と二瓶宏東京女子医大名誉教授(腎臓内科)は話す。

 昭和十三(一九三八)年、杏雲堂病院の院長に就任、五十六歳になっていた。全国の病院から治療の相談、往診依頼があり、多忙な日々。翌年、長女松子が橋本虎六に嫁いだ。東大医学部助教授から東北大薬理学教授を務め、厚生大臣をした橋本龍伍の弟。龍伍の長男龍太郎が総理、次男大二郎が高知県知事を務め、東京の岡山人脈の血縁だった。

 昭和三十四(一九五九)年、東京の学士会館で第一回日本腎臓学会総会が開かれ、佐々は初代会長に就任した。評議員には沖中重雄東大教授、飯島宗一広大教授(名古屋大学長)柴田進山口大教授(川崎医大学長)らが名を連ねた。日本腎臓学会誌一巻一号を見ると、佐々は記念講演し「ウィーン大学の内科臨床講義で心臓病、腎臓病、糖尿病などを勉強して帰ったが、生涯で一番腎臓病に親しみを持っておりました」と話した。

 この時、七十七歳。岡山の湯郷から上京して丸六十年、東大を卒業してちょうど五十年たっていた。近くに作州から出て東京の大学に通う学寮・鶴山館があり、若者を食事に招き郷里の話を聞くのを楽しみにしていた。九十歳まで杏雲堂病院へ出勤した。昭和五十四(一九七九)年、九十六歳で死去。(敬称略)
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2007年06月06日 更新)

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