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1 二つの手術室 刻まれた「ベンツ紋章」

さまざまな手術器具が並べられた私の手術室。「器械出し」と呼ばれる看護師が術者の求めに応じて次から次へと器具を手渡してゆく=昨年3月18日

手術から1年たったおなかのベンツマーク。ドレーン(排液管)の跡も残っているがすっかり目立たなくなった

 外部より高い気圧(陽圧)が保たれている室内は肌寒い。メス、はさみ、 鑷子 ( せっし ) (ピンセット)…。無影灯の下で銀色に輝く何十種類もの手術器具は威儀を正して整然と並べられ、最後の 晩餐 ( ばんさん ) を迎えるかのように、静かに出番を待っている。

 お花畑が見えるだろうか―。狭くて硬い手術台にあおむけになっている私はのんきに構えていたが、枕元に立つ麻酔医の声でたちまち現実に引き戻される。すでに右腕の静脈につながれている留置針から、音もなく麻酔薬が注入されていく。

 カウントダウンの猶予もない。昨年三月十八日午前九時、岡山大病院(岡山市北区鹿田町)の中央診療棟三階第五手術室。私の意識はそこから一昼夜半途絶えた。隣の第三手術室では、先に入室し、すでに深く麻酔がかかっている弟の腹部にメスが入ろうとしていた。

 あれから一年。あの日、私は手術室で何を施されたのだろうか。もしかして、すべては夢の中、想像の世界で起きたことではなかったのか。今も時として、そんな思いにとらわれることがある。

 でも、シャツをたくし上げておなかを目にすると、たちまち幻影は吹き飛ぶ。へその上に残る幅三十センチほどもある傷跡。逆T字形の紋章は高級外車になぞらえて「ベンツマーク」とも呼ばれる。肝臓移植を受けた患者(レシピエント)のおなかに必ず刻まれる手術の証しだ。

 みみず 腫 ( ば ) れのように赤黒かった傷跡はずいぶん薄くなり、もう痛むことはないが、生きている限り消えはしない。私のために肝臓の一部を切り分け、提供者(ドナー)となった弟の体にも、同じ刻印が残されている。

 岡山大病院での生体肝移植は一九九六年八月に始まり、私の手術が百八十七例目。その後も毎月二、三人の患者が手術を受け、現時点で二百十例を超えている。

 日本肝移植研究会の集計によると、二〇〇六年末までの全国累計は四千二百九十二例。〇四年以降は大部分の症例に健康保険が適用され、毎年四百―五百例の手術が行われている。先進医療から日常医療へ移り、重症の肝臓病に対する最後の治療選択肢として確立された。

 それでもなお、生体肝移植は特別な医療と言わざるを得ない。技術的に高度な手技を要することももちろんだが、健康なドナーの体にメスを入れ、二つの手術室で並行して行われる手術だからだ。

 日本初の生体肝移植は一九八九年十一月に試みられた。当時、私は本紙の連載記事「揺れる『いのち』」取材班の一員だった。

   ◇  ◇

 移植という道がなかったら、今生きていることはなかっただろう。私の「いのち」は多くの人に支え、つないでもらっている。感謝の思いを込めて闘病を振り返り、「選択」を突きつけられる医療の現実を紹介する。
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2009年04月06日 更新)

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