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10 ナッシュ 油断できない脂肪肝

摘出した私の病肝を前に手術経過を説明する八木孝仁医師

 移植という医療は、手術台に載るまでが大変だ。結果がどうあろうと、そこにたどり着くことができた人は幸運と言っていい。

 保険適用の条件として、肝硬変が 非代償 ( ひだいしょう ) 期であることを示さなければならない。代償とは欠けたものを補うこと。非代償期では、 あ肝 ( アカン ) 臓 ( ゾー ) の線維化が進んで正常な細胞がほとんどなくなり、もはや補いきれない。機能を保つことができない、ということだ。

 私は該当しないが、肝細胞がんを併発している場合、センチ単位のがんの大きさが保険適用を左右する。「選択」を迫る一線は非情に引かれている。

 「保険が認められないなら、全額自己負担すればいい」というご意見もあるだろう。預貯金をかき集めれば1000万円くらいあるが、分譲マンションのローンも2000万円以上残っている。手術後も毎月数万円の医療費を工面しながら、どうやって生活していこうか。

 2007年も年の瀬が近い。「○○さんを救う会」の募金箱を抱いて駅前に立つ姿も思い描いてみた。ギターでコブクロの「 蕾 ( つぼみ ) 」を熱唱する若者たちの傍らで、足を止め、話を聞いてくれる人がいるだろうか。

 結論から言うと、私の肝硬変は間違いなく非代償期だった。肝機能を示す血液検査の値は悪くないのに、いざおなかを開けてみると、肝臓はすっかりボロボロ。肝硬変の原因は「ナッシュ」にあった。

 「非アルコール性脂肪肝炎」の英語の頭文字から NASH ( ナッシュ ) と呼ばれる。縁もゆかりもなさそう、と油断しないでいただきたい。テレビ番組のタイトルを拝借すると「最終警告!本当は怖い― ナッシュ」なのである。

 健診で脂肪肝を指摘された方は大勢いらっしゃるだろう。中性脂肪が過剰に蓄積した「フォアグラ」の肝臓の状態だが、通常は肝炎に進行することはなく、無症状で過ごすことができる。ところが、その中にナッシュが潜んでいるのである。

 06年8月の硬膜外 膿瘍 ( のうよう ) の手術後、脂肪肝の疑いありと告げられた私も、酒をやめてダイエットに励めば改善するだろう、としか考えていなかった。けれど、すでに遅すぎた。今にして振り返れば、その時点でシュバルツシルト面―帰還不能地点―に足を踏み入れていたらしいのだ。

 現在、日本人の肝硬変の原因で最も多いのは、150万―200万人と推定されるC型肝炎ウイルス感染者の発症だ。しかし、血液製剤のウイルス検査が確実に行われ、感染者が減少するであろう今後、ナッシュが肝硬変の主役になると目す専門医が増えている。

 普通の脂肪肝とナッシュを鑑別するのは容易ではない。もし脂肪肝を指摘されたら、私の症例を他山の石として、帰還不能になる前に、真剣に治療に取り組んでもらいたい。


メモ

 シュバルツシルト面 ドイツの天文学者カール・シュバルツシルト(1873―1916年)はアインシュタインの重力場方程式を解き、星の半径がある距離(面)よりも小さくなると、光速でも脱出できなくなることを示した。ブラックホールが形成される境界であり、あらゆる情報が伝わらなくなるため「事象の地平線」とも呼ばれる。
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2009年06月22日 更新)

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