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12 社会的な死 「苦悩」分かち合う

講演するデーケン名誉教授。「人生の輝き」を保つためのユーモアの大切さを語りかけた=5月31日、岡山市民会館

 あおむけに転がり、おなかの水音に耳をそばだてていると、考えるでもなく「社会的な死」という言葉が頭に浮かんできた。

 「私の名前は『何も でーけん』です」。ユーモアあふれる語り口の上智大名誉教授アルフォンス・デーケン先生は、人間の死は四つあるとおっしゃった。肉体的な死を迎える前に、心理的に、文化的に、そして社会的にも、死を経験し得る。

 今年も5月31日、「岡山・生と死を考える会」のセミナーで元気に講演された。勉強された方も多いだろう。

 冷気をまとった2007年のクリスマス。岡山大病院(岡山市北区鹿田町)の外科外来で、移植コーディネーター保田裕子さんと向き合った私は訴えた。

 <つらつら思うに、肉体的な苦痛や不自由は我慢できても、閉門 蟄居 ( ちっきょ ) の日々が続き、社会的に死んでゆくのには耐えられない。いったんは考えないと言ったけれど、家族と相談して真剣に生体肝移植を考えたい>

 ばりばりのOR(手術室看護師)から転身して、コーディネーターになった保田さん。こうなることを予期していたのだろう。すぐに八木孝仁医師(肝胆膵外科長)に引き合わせてくれた。

 おなかを触診し、腹水のたまり具合を確認すると、八木医師は「移植してあげないといけないね」。心配していた保険適用についても「難治性腹水症で通るだろう」と請け合ってくれた。

 「医療の本質は、患者家族と医療者が『苦悩』を共有することにある」。八木先生、時々哲学的なことをおっしゃる。デーケン先生はドイツのことわざを引いて「共に苦しむのは半分の苦しみ」と表現していた。

 共有が救済を約束するとは限らないが、そうあってほしい。レシピエントを治療するだけではない。ドナーを含めた家族全体を診なければ、生体肝移植は成り立たない。

 「選択」の医療と言っても、バイキングで好きなメニューを選べるわけではない。がんじがらめにされた奈落の底で、目の前に垂らされた一条の命綱。ひょっとすると「 蜘蛛 ( くも ) の糸」かもしれない。覚悟を決めてつかみ取りますか?

 八木医師は、私が自分で答えを出すのを待っていたように思う。「社会的な死」の訴えに深くうなずいてくれた。刻々と病状が進行する急性肝炎など、悠長なことを言っていられない場合もあるが、時間をかけることによって互いの信頼を醸すことができる。

 移植にはドナーが必要だ。頭の中は堂々巡り。家族と呼べる存在は両親のほかに5歳違いの弟しかいない。遺伝子のつながった存在だけれど、一個の人格を持ち、ちゃんと家を構えて自活している。

 どうやって話を切り出そう。いや、そもそも健康な弟の身を傷つけてまで、手術を受けていいのだろうか。自分はそうまでして生きていく価値のある存在なのだろうか。


メモ

 蜘蛛の糸 芥川竜之介の小説では、地獄の底でもがいていた罪人の〓陀多(かんだた)を救ってやろうと、お釈迦(しゃか)様は一筋の蜘蛛の糸を下ろしてやる。ところが〓陀多の後ろから、何百、何千の罪人たちが列をなし、自分も助かろうと糸を上ってくる。歌舞伎の演目にもあるが、こちらは能の「土蜘蛛」が土台になっている。


※〓は牛へんに建
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2009年07月06日 更新)

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