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13 弟 奇跡の生還思い返す

1990年9月に来襲した台風19号で泥の海になった瀬戸内市付近の千町平野。岡山県内で10人の命が失われた

 石原慎太郎都知事の著作ではございません。またまた時計の針をはるか戻してしまう。

 1990年9月18日夜。にわかに大型台風19号が西日本へ接近。岡山県内でも日中から大雨が降り続いた。被害情報を警戒し、社会部員だった私も岡山西署(岡山市北区伊福町の旧庁舎)の記者クラブに詰めていた。

 「池さん、ちょっと」。午後9時前、当時の署長が手招きする。「これはお宅の弟さんか?」。署長が見せてくれた入電メモに弟の名があった。大学4年生だった弟が家庭教師に訪れていた岡山市郊外の民家の裏山が崩れ、同家の家族3人とともに生き埋めになったのだ。

 取材から外してほしい、とキャップに願い出て現場へ急行した。どこをどう走ったのか、足が震えていたのを覚えている。到着するのとほぼ同時に、救急車が出発した。弟は消防レスキュー隊に救出され、足の指を骨折したものの無事だった。

 母屋は一瞬でぺちゃんこ。在宅中の夫婦は遺体で見つかった。勉強部屋にいた二男と弟は、倒れてきた本棚が突っかえ棒になり、壁との間にできた30センチほどの 空隙 ( くうげき ) で生き延びたらしい。

 生体肝ドナーの話をどう切り出そうかと考えたとき、脳裏にこの一夜のことが鮮明によみがえった。埋まっていたのは1時間くらいだったようだが、どんどん酸素は薄くなっていただろう。レスキュー隊員も奇跡的な生還だったと語っていた。

 この救出によって、弟は2度目の命を与えられたようなものだ。レスキュー隊にはもちろん、天に感謝して生きてきたと思う。時はめぐり、兄はその貴い命を分け与えてほしいと願おうとしている。

 弟の体を傷つけてまで、自分は生きる価値のある存在なのか。生き延びることによって、何か社会に報い、貢献することができるだろうか―。考えてみても答えは出ない。

 弟はネットなどを通じ、ドナーになるための要件、手術の危険性や術後の痛みについて調べていた。昨年正月、二人で話したときには、日本でのドナー死亡は1例にとどまっていることなども、すでに知っていた。

 いざとなればドナーになるのは自分だ、とすでに心を決めてくれていた。「手術が決まったら、できるだけ早く日程を教えてほしい」とだけ、くぎを刺された。

 順調に経過すれば、ドナーの入院期間は2~3週間だが、肝臓が十分に再生し、体力が回復するまで2カ月程度、仕事を休まなければならない。岡山市内のメーカーで管理職を務める立場からも、当然の要求だった。

 一時的にせよ、二人の息子がともに 病臥 ( びょうが ) することになる。両親には気を確かに持ち、看病をお願いするしかない。昨年1月25日、一家4人そろって岡山大病院で説明を受けることになった。


メモ

 台風19号 19号には苦しめられた。1990年の台風19号は雨台風。瀬戸内市邑久町虫明で総降水量が500ミリに達し、千町平野一帯が泥の海になった。弟の事故があった民家の立つ丘陵地の反対側斜面でも土砂崩れが起こり、3人が死亡した。91年9月の19号は「リンゴ台風」とも呼ばれた風台風。広島湾などに甚大な高潮被害をもたらし、福山支社に赴任していた私は、岸壁に打ち上げられた大型船の取材などに駆け回った。
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2009年07月13日 更新)

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