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16 IC “神の摂理”に背いても

今は取り壊された岡山大病院西病棟の一室で行われたIC。右端の吉田龍一医師と隣の篠浦先医師が手術法を説明している=昨年3月15日

 昨年3月15日、私と両親、弟の家族4人でインフォームドコンセント(IC)に臨んだ。「説明と同意」などと訳されてきたが、岡山大病院(岡山市北区鹿田町)の新しい入院棟には「ICルーム」という札のかかる部屋ができたから、ICという言葉が定着していくのかもしれない。

 ICは決戦を前にした厳かな儀式だ。手術前の最後の関門でもある。前回紹介したさまざまな検査の過程で、想定外のがんや重大な余病が見つかり、手術を延期したり、断念せざるを得ないケースもある。あまたのハードルを越えてきたのに、断腸どころか断 肝 ( ・ ) の思いだろう、という言葉しか浮かばない。

 この日から新入院棟への引っ越し作業が始まっていた。「西病棟」と呼ばれていた薄暗い旧入院棟の一室でICを受けた家族は、私たちが最後だったかもしれない。

 チーフの八木孝仁医師( 肝 ( かん ) 胆膵 ( たんすい ) 外科長)をはじめ移植チームから6人が出席した。ドナーとなる弟の健康状態に問題はなく、肝臓全体の36%(414グラム)に相当する左葉部分を切除する予定であることなど、術式や予想される術後の合併症について説明があった。

 「神の摂理に背くことをするんです」―。八木医師がその言葉を口にしたのは、免疫抑制剤の服用について質問したときだった。

 「自己」と「非自己」を見分け、排除する免疫系は、人智を超えた複雑系だ。多田富雄先生(東京大名誉教授)の名著「免疫の意味論」(青土社)の冒頭に、ウズラ 胚 ( はい ) の脳胞(発生期の脳)をニワトリ胚へ移植する実験が紹介されている。生まれたニワトリはウズラが乗り移ったかのような行動様式を見せるが、数週間のうちに死んでしまう。

 拒絶反応とは、そういうことだ。「私が私である」という意識や認知、情動は脳が 司 ( つかさど ) っているが、体にとっての「自己」はそれだけでは規定されない。

 八木医師は肝臓を水島コンビナートにたとえる。壮大な化学工場が集まる肝臓は、500以上の反応を同時に制御、エネルギー源を貯蔵・供給し、アルコールなどの解毒作用も一手に担う。人体が岡山県だとすれば、肝臓移植は水島コンビナートをそっくり入れ替えることになる。

 肝臓は物思い、考えることはしないだろうが、「自己」と不可分の臓器であることに間違いない。単なる1個の部品ではない。「神」の存在を見るかどうかはともかく、免疫抑制剤という「免罪符」は生涯にわたって手放せない。

 手術前日(3月17日)の夜、編集局から翌日付の朝刊紙面の大版(試し刷り)が届いた。先輩、同僚たちが激励の言葉を寄せ書きしてくれている。

 「やっとここまでたどり着いた」「もう引き返せない」―。涙にむせび、 安堵 ( あんど ) と緊張がない交ぜになったまま、「古い私」は最後の眠りについた。


メモ

 無明の井 多田富雄先生は能に造詣が深く、新作能の脚本も書き下ろしている。1991年に初演された「無明(むみょう)の井」は脳死と臓器移植がテーマ。脳死状態で心臓を摘出された男性の霊が「我は生き人か死に人か」と問いかける。先生は2001年に脳梗塞(こうそく)で倒れたが、リハビリに取り組み、執筆活動を続けている。
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2009年08月03日 更新)

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