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21 出血との闘い 血液を総入れ替え

第5手術室へ運び込まれる弟のグラフト。血液型の環境が変わっても(弟はO型、私はA型)とても元気に働いてくれている

 2000年5月、元プロレスラーのジャンボ鶴田さんは、フィリピンで脳死ドナーから提供を受けた肝臓移植手術の最中に亡くなった。大量出血によるショックが原因だった。

 肝臓移植は出血との闘いである。健康な血液は、血管の外に出ると、不思議なことに真空中でも固まる。血小板増殖を刺激するトロンボポエチンというタンパク質が重要らしいのだが、主に肝臓でつくられる。肝硬変が進むと、その大切な物質が不足する。手を尽くしても、出血を止めることができなかったのだろう。

 「オー!」。移植を考えるようになったとき、在りし日の大魔神のごとき鶴田選手の雄たけびを思い返した。中学生のころに観戦した岡山武道館(岡山市北区いずみ町)のマットで、右腕を突き上げた勇姿が目に焼き付いている。あんなに頑健な肉体を持つ偉丈夫でさえ命を落とした。少なからぬ危険はある。でも、「人生はチャレンジだ!!」を体現した最期は、今も私たちに勇気を与え続けてくれる。

 昨年3月18日、私の手術は予定より大幅に長引いていた。岡山大病院では移植手術中の死亡例はないが、今は取り壊された西病棟の待合室に詰めていた両親や親類は、気が気でなかっただろう。

 出血との闘いが続いていた。「移植医は万単位(ミリリットル)の出血をコントロールできなければならない」。執刀した八木孝仁医師( 肝胆膵 ( かんたんすい ) 外科長)は断言する。5000ミリリットル程度は覚悟していたのだが、終わってみると1万1645ミリリットルに達していた。全身の血液量のほぼ2倍に相当する。

 肝臓には毎分約1500ミリリットル、心臓が安静時に送り出す血液のおよそ4分の1が流れ込む。絶え間なく、どくどくと血が注ぎ込む臓器を切り取り、植え替えるのである。慌てず素早く丁寧に止血していかねばならない。

 これだけ出血するのだから、手術中はもちろん、術後もジャブジャブと輸血してもらっている。移植は肝臓を取り換えるだけではない。貴重な善意の献血をいただいて、全身の血液も入れ替わってしまった。

 血液は「流れる臓器」とも呼ぶべき存在(講談社ブルーバックス「『流れる臓器』血液の科学」参照)。骨髄移植が行われているし、広い意味では輸血も移植の一つと言える。献血すればドナーになり、血液製剤の点滴を受ければ、あなたもレシピエントだ。私たちは平時、健康な時に、もっと真剣に臓器移植のあり方を考えておくべきだと思う。

 私の手術は夜半にさしかかり、ようやくゴールが見えてきた。肝静脈、門脈の 吻合 ( ふんごう ) が終わり、血流を再開。肝臓に流入する血液の7割は門脈が供給しており、これで入り口と出口が確保された。もう慌てる必要はない。後はゆっくり肝動脈をつなぎ、胆管を再建していけばいい。

 午後11時10分、八木医師は脈管のつなぎ目に漏れやほころびがないことを念入りに確認し、閉腹を指示した。

 「よくやった」。スタッフをねぎらう言葉で、やっと第5手術室が 安堵 ( あんど ) の空気に包まれた。

メモ

 ジャンボ鶴田 本名鶴田友美。1951年山梨県生まれ。ミュンヘン五輪(72年)に出場後、ジャイアント馬場に弟子入りしプロデビュー。初代三冠統一ヘビー級王者に輝き、頂点を極めたが、B型肝炎が悪化し99年に引退。生体肝移植も考慮したものの条件が整わず、韓国、オーストラリア、フィリピンで脳死移植を希望し、ドナー待機登録した。「人生はチャレンジだ!!」の言葉は故郷の墓碑銘になっている。遺志を生かそうと「ジャンボ鶴田基金」が設立され、保子夫人らが移植への理解を求める活動を続けている。
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2009年09月21日 更新)

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