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笠岡第一病院 宮島厚介理事長、宮島裕子副理事長 地域医療への貢献が原点

宮島厚介理事長(写真左)、 宮島裕子副理事長

藤井大輔氏

橋詰博行氏

往診に向かう藤井大輔。革ジャンパーと飛行帽が定番のスタイルだった。オートバイはヤマハ発動機の市販車第1号「YA-1」=1950年代

 <戦後の日本が立ち直り始めた1952(昭和27)年12月、笠岡市横島の海岸沿いに藤井医院が開業した。笠岡第一病院のルーツだ。木造平屋で内科、外科、放射線科の19床。院長は30歳の藤井大輔。岡山医科大学(現岡山大学医学部)第二外科で腕を磨いた。この年の4月、長女の裕子が誕生したばかりだった。周辺に医療機関はまだ少なく、開業当初から医院は患者であふれた。外来での診察が一段落すると往診がある。大輔は革ジャンパーと飛行帽を身に着け、往診かばんを載せたオートバイにまたがり、猛スピードで田舎道を駆けた>

 宮島裕子 父は幼少期を横島で過ごしました。祖父母が暮らした土地でもあります。医院は穏やかな瀬戸内の入り江に面し、目の前には神島、左手には三つの小さな島、大殿州(おおどんす)、小殿州、孫殿州がぽっかりと浮かんでいるのが見えました。

 宮島厚介 神島には大きな肥料工場があり、北木島、白石島は石材業でにぎわっていました。医院の近くに船着き場があり、笠岡諸島の人々の医療も考えてこの地を選んだと聞いています。

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 <当時、自家用車はまだ少なく、交通機関も未発達で医院に通える患者ばかりではなかった。そうした患者のためにも大輔は往診に力を入れた>

 裕子 父が夜遅く、たびたび往診に出かけていたのを覚えています。地域医療に大きな責任を感じていたのです。鷹揚(おうよう)でいて短気なところもありましたが、患者さんや職員には一人の人間として向き合い、誠実に対応していました。そうした生き方が、私の心のよりどころとなっています。

 厚介 患者さんの健康、命を預かる「医の原点」がそこにあると思います。先代(大輔)の代理で往診に行ったとき、患者の家族から「大輔先生は一晩に3回も往診に来てくれた」と言われたことがありました。それくらい患者さんのことを気にかけていたのです。

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 <戦後復興は進み、56年の経済白書は「もはや戦後ではない」とうたった。医院は58年に藤井病院と改称。増築を繰り返し38床に増床した。若い医師や職員も増えた>

 裕子 医院から病院になったころはまだ貧しいけれど、あしたへの希望が見えた時代でした。当時は中学卒業後、寮に入って働きながら准看護師を目指す人も多くいました。母の洋子は病院に接した自宅に月に1度は講師を招き、彼女たちにお茶やお花、料理などの花嫁修業をさせ、親代わりの役目もしていました。結婚や結婚後の相談にも乗り、うちからお嫁に送り出したこともあります。共に働き共に成長する当時の精神が、今の病院の福利厚生や子育て支援制度の構築につながっていると思います。

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 <このころから笠岡市は大きな変化を見せる。58年には富岡湾干拓事業が完了。商店や住宅が建ち並ぶ今の番町地区が生まれた。国道2号は岡山国体が開かれた62年に笠岡―玉島間が開通。藤井病院は66年、附属診療所を国道2号沿いに開設し、市中心部に間口を広げた。名称を笠岡第一病院に変え、85年には厚介が院長に就任。裕子も小児科医として附属診療所での勤務を始めていた>

 裕子 番町地区には子育て中の若い世代が多く、医療だけでなく育児環境の変化への対応が急務でした。市の依頼で乳児健診を始め、幼保・小中学生の保健分野や井笠地区の小児救急を考える会、救急勉強会などにも参画しました。地域のニーズから始めた小児の入院診療は、今では年間300人前後となっています。

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 <80年代以降、高齢化もあって疾病構造に変化が現れた。がんや脳卒中、心臓病など生活習慣病をはじめとする慢性疾患が多くを占めるようになった。笠岡第一病院も眼科、皮膚科、透析センターなどを設置。特別養護老人ホームや介護老人保健施設を開設するなど高齢者医療・介護の拠点体制も整えていった。一方、近隣に競合する医療機関が増え、地方の医師不足も問題化していた。2005年にはさらなる発展を目指し、岡山大学から整形外科助教授だった橋詰博行を院長に招いた>

 厚介 人生は「出会い」だと思っています。橋詰院長が来て病院は新たな進展を遂げました。彼は肘から指先までのけがや病気を治す「手外科」の名医です。院長に学びたいという若い医師が多数、来てくれるようになりました。患者さんも院長の治療を求め、県内外から訪れています。その力強い行動力で院内だけでなく地域の病院・診療所の先生方とも信頼関係を構築しています。

 70年前に外科から出発した当院は、患者さんの声を聴き、地域医療への貢献を理念として、職員一丸となって歩みを止めることなく進んできました。今では地域包括ケアシステムの核である急性期病院として、介護と医療の関連複合施設「瀬戸ライフサポートセンター」と連携しながら、患者さんの生活に軸足を置いた切れ目のないサービスを提供しています。患者さんが住み慣れた地域で最後まで暮らせるようにしたい、患者さんの健康を一生涯診ていきたい、そういう思いがあります。

  (敬称略)

 みやしま・こうすけ 1950年、真庭市生まれ。川崎医科大学卒業、同大学大学院博士課程修了。川崎医科大学附属病院内科、総合診療部を経て84年から笠岡第一病院勤務。85年に院長、93年理事長兼院長。2005年から理事長専任。笠岡医師会会長、岡山大学医学部医学科臨床教授も務めた。

 みやしま・ひろこ 1952年総社市生まれ。川崎医科大学卒業。同大学附属病院小児科を経て85年から笠岡第一病院小児科勤務。99年に副理事長就任。2000年から10年間、笠岡市教育委員を務めた。笠岡子ども・子育て推進会議副会長。

 ふじい・だいすけ 1922年笠岡市生まれ。岡山医科大学専門部卒業。同大学第二外科を経て52年に藤井医院を開業した。60年に医療法人清和会藤井病院理事長、71年に医療法人清和会笠岡第一病院理事長。岡山県病院協会監事も務めた。笠岡市文化功労者。父伊三郎の遺志を継ぎ、83年に笠岡市に行った寄付によって藤井育英会が設立された。93年11月、回診中に脳出血で倒れて死去。

 はしづめ・ひろゆき 1952年、高知市生まれ。岡山大学医学部卒業、同大学大学院医学研究科(整形外科学専攻)修了。岡山大学医学部附属病院勤務(整形外科)、同大学医学部助教授(同)を経て2005年から笠岡第一病院院長。東京大学大学院工学系研究科非常勤講師、岡山大学医学部医学科臨床教授。2021年山陽新聞賞受賞。

藤井育英会

 藤井大輔は教育者だった父・伊三郎(1900~82年)の遺志を継ぎ、1983年、社会に役立つ人材育成を目的に笠岡市に1000万円を寄付。これを基金に「藤井育英会」が設立された。成績優秀だが経済的理由で就学困難な笠岡市の高校生らを対象に奨学金を給付している。基金はその後遺族で積み増しされ現在約7000万円。2020年度までに530人に給付した。
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2021年02月16日 更新)

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