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(16)噛める入れ歯 朝日高等歯科衛生専門学校校長 渡邊達夫

 今から20年ほど前、「保険で噛(か)める入れ歯を」というキャンペーンがあった。その頃、保険の入れ歯は噛めないから、自費の入れ歯にしようと歯科医院で言われることが多かった。その風潮に疑問を感じた歯科医師たちが立ち上がった。保険で作る入れ歯と自費の入れ歯の違いは材料の違いであって、作製上の違いはほとんどない。だから、保険の入れ歯でも自費の入れ歯と同じくらい噛めるはずだという。

 入れ歯の歴史は、古代エジプト時代にまでさかのぼる。紀元前2500年ごろのものと思われる入れ歯が発掘されている。日本で一番古い入れ歯は、奈良時代のもので、蝋石(ろうせき)という半透明の軟らかい石で作られていて、歯と歯の間にはめて糸でくくるようにしていたと思われる。

 アメリカの初代大統領、ジョージ・ワシントンは大統領に就任した時(1789年)、左下の歯1本が残っていただけで、入れ歯を入れていた。1ドル紙幣のワシントンの肖像画を見ると、口をムッとつぐんでいて、唇が膨らみ、確かに入れ歯が入っているように見える。彼の入れ歯の土台は象牙でできていて、歯は自分の歯を抜いたものを埋めていた。上顎と下顎はスプリングでつないであって、口が開いても入れ歯が落ちないようになっていた。ムッとつぐんでいなければスプリングの力で口が開いてしまう。大統領の演説の時は、どうしたのだろうか。

 小林一茶は同年代の人で「すりこ木の やうな歯茎も 花の春」と詠んでいる。歯が全部抜けて、すりこ木のような歯グキになってしまっていた。

 「わか水の 歯に染(し)のも むかし哉」も一茶の句である。歯周病に罹(かか)っていたのだろう。歯があった頃は、歯グキが下がっていて、新年の最初に汲(く)んだ冷たい水がしみたのだろう。それを懐かしんでいるのか、しみなくなって安堵(あんど)しているのか、どっちなんだろうか。

 昔から入れ歯は、歯が無くなってしまって唇が落ち込み、見た目が悪いのを治すために使われていた。技術が進歩して、蛸(たこ)の吸盤のように陰圧で入れ歯を顎に吸いつかせるようになると、噛める入れ歯にしようという努力がされた。しかし、歯学部で教えてもらったのは入れ歯を作るステップと材料の成分、性質などであり、実習ではいかにきれいな入れ歯が作れるかが競われていて、入れ歯がどれほど噛めるかの教育はされていなかった。

 「義歯はずし 豆腐の味を 噛みしめる」守屋魚門

 「おばあちゃんのはは ぜんぶとれます ごはんをたべるときははをとってたべます たべないときは はをつけます」はるな ひとし(一年一組 先生あのね、鹿島和夫編)

 これらは二十数年前の新聞や書籍に載っていたものだが、一茶の時代から200年以上たっているのだから、昔よりは進歩しているはずだ。しかしまだ、満足な入れ歯は作れない。ブリッジと言う橋渡しをして作る入れ歯でさえ80%の機能回復力である=表参照。一人ひとり歯の形、歯の並びや生えている角度は違っているのに、人工の歯は歯科技工所にある形に合わせて作る既製品で、歯並びも角度も自然のものとは違っていることが100%回復できない理由である。インプラント義歯についても同じことで、咀嚼(そしゃく)能力は明らかに落ちている。総入れ歯に関しては1割強の回復しかしていない。歯を削ったり、抜いたりするたびにものを噛む能力が落ちていく。

 超高齢社会の日本。お年寄りの一番の楽しみはおいしいものを食べることである。長生きできた人々がおいしいものを食べて、健やかに美しく老いていくためには、歯は抜いたらいけない、削ったらいけない。どんなにお金をかけても、入れ歯では満足に噛めないのだから。
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2012年11月05日 更新)

タグ: 高齢者

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