文字 
  • ホーム
  • コラム
  • 人は何のために生きるべきか 倉敷中央病院長 小笠原敬三

人は何のために生きるべきか 倉敷中央病院長 小笠原敬三

 昭和31(1956)年7月に発表された経済白書の結びの言葉は、太平洋戦争後の日本の復興が終了したことを指して「もはや戦後ではない」と記述され、流行語にもなりました。

 そして、戦後20年を経過して、没収されることも検閲を受ける危惧もないと感じられるようになった戦争中の手記が、封印を解かれたように発表されるようになりました。

 昭和41(66)年に出版された「あゝ同期の桜」など、学徒出陣した青年たちの手記は、戦時下の青年が真実探求に誠実な努力を尽くしたことが読み取れ、昭和40年代前半の政情不安な時代に生きる青年たちの中に多くの読者を持ちました。

 翌42(67)年に出版された、林尹夫(ただお)著「わがいのち 月明に燃ゆ」もその一つです。

 林尹夫は、旧制第三高等学校を経て京都大学へ進みました。彼は戦時下、何のために、いかにして人は生きなければならないのかと悩み、必然的に、第1次世界大戦と青年の問題がテーマであったトーマス・マンの「魔の山」、マルタン・デュ・ガールの「チボー家の人々」に深く傾倒します。

 彼は学問への志が強く、次第に崩壊しつつあった日本のここに至る原因を社会経済学的視点から懸命に解明を試みようとします。やがて学徒出陣。著者18歳から23歳で戦死するまでの手記です。

 大学生であった私は、読書し、考え、友人たちとの結論を得ない議論に徹夜したものですが、彼の日記に記載している驚愕(きょうがく)的な読書量、語学力、思索力を知り、圧倒されました。
(2014年3月6日付山陽新聞夕刊「一日一題」)
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2014年03月06日 更新)

タグ: 倉敷中央病院

カテゴリー

ページトップへ

ページトップへ