文字 

(6) 心臓・大血管手術 川崎医大心臓血管外科学 種本和雄教授 3000例執刀、難易度高い再手術も

たねもと・かずお 福山誠之館高、岡山大医学部卒。岡山大第一外科入局、広島市民病院外科研修医を経て国立岩国病院外科勤務、1990年同病院心臓血管外科医長、94年オフポンプの冠動脈バイパス術を実施。2000年川崎医大外科学(胸部心臓血管)教授、10年から同大心臓血管外科学教授。心臓血管外科専門医。心臓血管外科専門医認定機構総務幹事。56歳。

―これまでに執刀された心臓・大血管手術は何例ですか。

 種本 前任施設の国立岩国病院(現・岩国医療センター)からの通算で約3千例です。川崎医大に赴任後は年間約100例を執刀しています。心臓弁膜症に対する弁形成術と弁置換術、虚血性心疾患への冠動脈バイパス術、大動脈疾患での人工血管置換術などです。大学病院ですから、他施設からの紹介で難易度の高い弁膜症の3回目、4回目の再手術を行っており、中には感染している症例もあります。ただし、予定手術で亡くなった患者さんは、昨年と今年は1人もおられません。

 ―後期高齢者も手術の対象ですか。

 種本 はい。当院で手術を受けられた最高齢者は、冠動脈バイパス術が92歳、大動脈解離の手術が91歳、弁膜症は90歳です。われわれ戦後世代とは違い、戦中世代の方々でしょう。当時の食生活が粗食だったこともあり皆さん元気で、手術も十分受けられます。90歳代まで元気で生きられるのは、ある意味、生物学的エリートですね。

 ―とりわけ印象深い手術は。

 種本 数年前のクリスマスイブの夕方、岡山県北部で30歳代女性の急性大動脈解離が起き、当院で緊急手術をという依頼がありました。小学生のお嬢さん2人がいる母親と伺いました。ドクターヘリで迎えに行ってもらったところ、ヘリで搬送中に上行大動脈が破裂、心肺停止状態となりました。

 ―ただならぬ事態です。救命できたのですか。

 種本 救急部の医師が人工呼吸、心臓マッサージを行い、搬送してきました。到着時は心拍も呼吸もなく、瞳孔も散大していたのですが、何とか救命したいと考え、補助循環装置を着けました。わずかに呼吸が再開したので可能性はゼロではないと判断し、緊急手術を夜中までかかって行いました。集中治療スタッフの頑張りもあり、数日後に意識が回復、やがて、ご自身で歩いて退院されました。その後、お手紙を頂きました。

 ―医者冥利(みょうり)に尽きますね。ところで、心疾患の治療は内科と外科が協力して行う「ハートチーム」の考え方が定着してきました。

 種本 当院では十数年前からハートチームを実践しています。例えば、弁膜症手術の評価を術中に超音波検査で行う場合、循環器内科の医師が手術場に入ってきてくれます。虚血性心疾患に対してカテーテル治療か、手術かといった治療方針を決めるカンファレンスも内科と外科が合同で行っています。

 ―心臓外科医の道に入ったきっかけは。

 種本 高校時代、父親から「自分の技量で勝負できる仕事は面白いと思うぞ」と言われたことでしょうか。岡山大医学部に入り、機能再建の外科に興味を持ち、心臓外科か、整形外科かと考えていたところ、ボート部の先輩だった第一外科の折田薫三教授から「うちで心臓ができるようにする。わしを信じて来いっ」と言われ、「はいっ」と即答です。今どきの若手には考えられないことでしょうが、まあ当時はそんな時代でした。

 ―手技をどのように磨いたのですか。

 種本 国立岩国病院に勤務していた1986年、米国テキサス心臓センターで単身3週間の研修を受けたことがあります。朝7時から夕方4時ごろまで手術をひたすら見学し、術者は第1糸をどこからどこへ掛けたか、そのとき左手は何をしていたか、助手の右手は何をしていたか、助手の左手は何をしていたかといった具合に克明にメモを取りました。上には上がいると、目からうろこが落ちました。そのときのメモは“宝物”です。以来、世界の施設を見ては手技を学んできました。「ever upward(さらに上へ)」が座右の銘です。常に謙虚でありたい。

 ―心臓血管外科専門医認定機構のナンバー2である総務幹事を務めておられます。

 種本 新たな専門医認定制度が今年スタートしました。これまで各学会が独自の基準で認定していたものが「日本専門医機構」による認定に一本化されます。心臓血管外科分野で、専門医を育てるための研修システムをつくるのが、私の総務幹事としての仕事です。会議で週3回、東京へ日帰りのときもありますよ。2017年4月には、若手専門医を育てる新しい研修システムが始まります。

◇ 川崎医大病院(倉敷市松島577、(電)086―462―1111)
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2014年06月17日 更新)

カテゴリー

ページトップへ

ページトップへ