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(1)精神科病院の歴史 慈圭病院医局長 羽原俊明

現在の慈圭病院

1962(昭和37)年に完成した完全開放病棟。24時間出入り自由となっていた

羽原俊明医局長

 1945(昭和20)年8月15日、日本は終戦を迎えました。当時、戦争での疲弊に加えて食糧難が続き、全国で多くの精神科病院が病床閉鎖や休院へと追い込まれました。この戦後の混乱の時期を経て、50(昭和25)年、精神衛生法が施行されました。この法の成立で、ようやくわが国でも近代的な精神医療の法体制が始まりました。

 このような時代の51(昭和26)年、岡山市内に理想的な精神科病院をつくることを目的に小児科医、外科医、精神科医、山陽新聞社論説委員などが設立資金を寄付して財団法人慈圭会が設立されました。理想的な病院とは、ある個人の病院ではなく、また規制に縛られた国立、県立とかそれに関連した所属団体の病院でもなく、営利を目的としない最高の医療を目指した財団法人によって運営される病院でした。

 そして、翌52(昭和27)年9月に財団法人慈圭会慈圭病院が岡山市の浦安の干拓地に開院しました。開院日の陣容は、医師3人、総職員22人で、総病床数72床でした。

 51年に覚せい剤取締法が制定され、当時蔓延(まんえん)していた覚醒剤精神病は急激に減少し、精神科病院の診療の中心は統合失調症へと移りました。しかし、現在のように治療法が進んでおらず、社会からの偏見も強い状況で、入院にまで至った患者さんたちが社会に帰ることは容易ではありませんでした。

 慈圭病院では、早期の社会復帰のために、昭和30年代にようやく日本に取り入れられた抗精神病薬による治療に加えて、作業療法、職業訓練をいち早く取り入れました。それに加えて幸運だったのは、浦安地区の多くの農家や事業者のご支援があって、それらの方々の元で病院外でのリハビリ活動が大々的に展開できたことでした。

 また、このように社会の中でリハビリをする患者さんたちのために、62(昭和37)年に南壁が全面掃き出し窓で24時間部屋から直接屋外へ出入り自由な、完全開放病棟が完成しました。これは、当時としてはかなり挑戦的な試みでした。

 昭和から平成にかけて、長らく精神科病院の入院治療の中心は、統合失調症でした。しかし近年その割合は年々減少し、かわってうつ病、認知症が増えてきています。慈圭病院の統計では、年間の全入院者に占める統合失調症の割合は、2002(平成14)年が約80%だったのが16(平成28)年には41%と半減しています。その背景には統合失調症の軽症化、地域での療養生活を支える制度や施設の充実、副作用が少ない新しいタイプの薬の開発、さらには精神保健教育の普及に加えて精神科クリニックの増加によって、早い段階での治療導入が容易になったことが挙げられます。

 現在、医療の視点は、疾患そのものよりも、患者さんの社会生活に向いています。精神科においても快適な社会生活をおくる上での支援が重要視されています。そのために、生活に密着し、発病あるいは再発に対して早期に介入できる急性期医療体制、障がいを克服するための生活支援体制、疾患ごとの特性に配慮し早期の生活の回復を可能にする入院体制の充実が求められています。慈圭病院でも、24時間型の訪問型生活支援体制や救急医療体制、完全個室急性期病棟、通院リハビリ施設などの充実を図ってきています。

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 慈圭病院(086―262―1191)

 はばら・としあき 広島大学付属福山高校、岡山大学医学部卒。岡山大学医学部付属病院精神神経科、慈圭病院、大川総合病院、香川県立中央病院を経て1998年に再び慈圭病院へ。2007年から現職。精神保健指定医、日本精神神経学会専門医・指導医、日本神経学会専門医など。
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2017年09月04日 更新)

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