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(2)開いた扉 初の判定「足が震えた」

国内初の脳死判定を巡り、高知赤十字病院で行われた記者会見。大勢の報道陣が詰め掛けた=1999年2月

 1999年2月28日。高知赤十字病院(高知市)に日本中の医療関係者らの視線が注がれていた。

 くも膜下出血で入院中の40代女性が脳死と判定された。臓器移植法に基づく最初のケース。法施行から1年4カ月がたっていた。

 提供されることになった臓器は心臓、肝臓、腎臓。当時、日本臓器移植ネットワーク中四国ブロックの事務局長を務めていた岡山県臓器バンクの田中信一郎理事長は急きょ高知へ向かい、心臓を大阪大病院まで運ぶスタッフをサポートした。

 高知空港に向かう救急車に乗り込むと、車内にはクーラーボックスがあった。中には摘出されて間もない心臓。「医学史が塗り替えられる瞬間。足が震えた」と振り返る。

国民が不信感

 脳死移植は、米ピッツバーグ大のトーマス・スターツル教授が63年に肝臓移植を成功させた後、画期的な医療として世界へ広がった。67年には南アフリカで心臓移植が実施された。

 日本でも翌68年、札幌医科大の和田寿郎教授らが国内初の心臓移植に踏み切った。いわゆる「和田移植」だ。当初、新しい医療の夜明けと受け止められたが、移植を受けた患者が手術から83日目に死亡。ドナー(臓器提供者)の脳死判定の妥当性、患者が真に移植を必要としていたかどうかを巡り疑念が生じ、「密室の医療」と世論の批判を浴びた。

 「国民の多くが不信感を抱き、脳死移植反対に傾いた。扉は閉ざされ、不毛の時代に入った」と田中理事長は言う。

 85年、竹内一夫杏林大名誉教授を班長とする厚生省研究班が脳死判定基準(竹内基準)を発表。事態は動きだすが、国内の理解にはさらに時間を要する。92年に国の脳死臨調が「脳死は人の死」と答申したが、法律家や哲学者、宗教家らを巻き込んだ激論の末、臓器移植法が成立したのは5年後だった。

 和田移植から30年近くたつ間に世界では移植医療が一層浸透。日常的な医療へと着実に進む一方、日本は取り残されていた。

慎重を期す 

 臓器を提供する場合に限り、法で「人の死」と定められた脳死。心臓死とは異なる新たな死の判定過程には、高い透明性が求められる。本人が生前に意思をカードなどで示す仕組みを作り、脳死判定は2度行い、慎重を期す。背景には、わが国の移植医療が長らく停滞するきっかけとなった和田移植への反省がある。

 法に基づく最初の脳死移植となった高知赤十字病院のケースでは、脳波の有無を巡って病院側が脳死判定をやり直したり、大挙して集まったメディアによる報道にドナー家族が不信感を抱き、病院に抗議したりと混乱もあったが、1人の死から4人の命が救われた。

 「もし、ドナー家族が提供を振り返り『自分たちのような思いを他の人に味わわせたくない』と訴えていたら、開きかけた扉はまた閉ざされていただろう」。田中理事長はそう推測する。

 そして、ドナー家族の気持ちを最優先に考えて対応することを胸に刻む。「法の趣旨を踏まえ地道に取り組むことが、脳死、移植医療への理解が深まる唯一の道なんです」

 脳死 脳幹を含む全ての脳機能が失われ、回復しない状態。「植物状態」は脳幹の機能が残っており、脳死とは異なる。脳死判定では、痛みを感じないほど深い昏睡(こんすい)▽瞳孔の散大と固定▽喉を刺激してもせき込まないといった脳幹反射の消失―などを確認する。6歳以上は6時間以上、6歳未満は24時間以上の間隔を空けて2回検査し、2回目の終了時が死亡時刻となる。生後12週未満は法的判定の対象外。

※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2017年11月19日 更新)

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