災害時には知識や経験の共有必要 避難所で活動の田崎看護師に聞く

田崎さんの呼び掛けに応じ、段ボールベッドを協力して作るボランティアら。豪雨直後は避難所の環境整備も災害支援ナースの重要な仕事の一つだった=7月、第五福田小

第五福田小に開設された避難所での活動を振り返る田崎さん

 7月6日の西日本豪雨を受けて倉敷市真備町地区の被災者向けに開設された避難所で、約1カ月にわたり医療支援を展開した岡山県看護協会登録の「災害支援ナース」。発生から4カ月を前に、同市水島地区の第五福田小で活動した川崎医科大総合医療センター(岡山市北区)の田崎修平看護師(40)=同市=に改めて当時を振り返ってもらい、課題や教訓を聞いた。

 ―派遣された経緯と避難所の状況は。

 7月11日に協会からファクスで出動要請があり、13日から4日間滞在した。体育館を被災者約50人が利用し、初めはそれぞれ畳1枚にマットを敷いて寝起きしていた。多くの人は自宅の片付けのため早朝から外出。交通渋滞を避けようと午前5時ごろに起床し、6時には避難所を後にしていた。館内にエアコンはあったが、ストレスや屋外での長時間にわたる立ち仕事の影響で体のむくみ、体調不良などを訴える人が続出。脚の静脈に血栓ができるエコノミークラス症候群の発症リスクが高い状況だった。

 ―具体的にどんな支援をしたのか。

 活動は2人一組で、時間は午後4時~翌朝11時。被災者の健康を守るため、血栓予防や体の負担軽減につながる段ボールベッドの製作を急いだ。数人で協力すれば1台を10分ほどで完成させられ、既に部材も避難所に届いていたが「自宅の片付けで疲れ果て、それどころではない」とする人が大半。そのため1台を試作して全員がいる朝、実際に寝てもらい、クッション性の良さや足を下ろして快適に過ごせる利点を説明。本人に代わり、ボランティアと協力して順番に作らせてもらった。ベッドと同様に血栓をできにくくする弾性ストッキングも勧めた。

 ―片付け中に負傷して避難所へ戻る人も少なくなかったと聞く。

 泥で軍手や手袋が汚れたからと、素手でがれきを撤去して切り傷を負ったという人が目立った。初めはガーゼ、ピンセットなど必要な医療用具がなく、協会などにそろえてもらい対応した。治療と並行し、片付けから帰ってきた被災者ら一人一人の問診も実施。体調の変化や薬を適切に飲めているかを聞き取り、昼から入れ替わりで診療に来る医師への申し送り文書を作った。仮眠中でも体調不良を訴える被災者がいれば起きて相談に乗った。

 ―活動上の難しさはなかったか。

 日頃の病院業務と違い、医師が常時そばにいない不安は大きかったが、物資が早期に届いたため大きな不便はなく、これまでの看護経験と、持ち込んだ医学書を駆使して何とか対応できた。熊本地震(2016年)の被災地で活動した際の学びも生きた。現地で段ボールベッドなどの有効性を知ったからこそ、今回早い段階で勧められ、大事に至る人を出さずに済んだと思う。被災者から「いてくれて安心」との声も掛けてもらい力になった。

 ―「晴れの国」といわれる岡山でも大規模災害が起きた。

 実は「災害の少ないイメージ」こそ、災害支援ナースを志したきっかけだった。平穏な岡山の環境に安住せず、医療従事者としてスキルを磨き、有事の際にも適切な対応ができる存在に―と努力して13年に認定を受けた。それだけに「まさか自分が住む岡山で活動することになるとは…」と当初は複雑な気持ちもあったが、今は困っている人たちの力に少しでもなれて本当に良かったと思っている。

 ―今後の課題は。

 今回は所属病院一帯が被災を免れ、かつ勤務調整ができたからこそ稼働できた。だが広域の被害が懸念される南海トラフ地震が起きた場合、現在の態勢で対応できるかとなれば正直分からない。倉敷での活動成果を発信して知識や経験の共有を図るとともに、地域・災害医療の担い手拡充の必要性を訴えていきたい。

 災害支援ナース 各都道府県の看護協会が主催する研修を受け、被災地での活動に必要なスキルを身に付けた看護師。職務経験5年以上の人が受講対象(任意)で、1995年の阪神大震災を機に日本看護協会(東京)が育成を推奨している。全国に約9400人、岡山県内には約120人おり、これまでに東日本大震災(2011年)などで活躍。西日本豪雨では、県看護協会の要請に応じた県内の75人が倉敷市の避難所で医療支援に当たった。

(2018年11月05日 更新)

※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

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