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心臓病センター榊原病院 榊原敬理事長・院長 時代を見極め 次の一手

榊原敬理事長

榊原亨氏

榊原宏氏

榊原宣氏

 人々の健康な生活を支える病院や診療所は縁あってその地に開業し、さまざまな課題に直面しながらも住民の生老病死を引き受け、地域とともに歩みを重ねてきた。創業者たちはどのような志を抱いて医療に取り組み、時代の荒波を乗り越えてきたのか。継承者らにルーツを語ってもらった。

 <最先端の技術を駆使して心臓の機能を回復し、患者を死の恐怖と苦痛から解放する心臓外科。その黎明期をトップランナーとして突っ走ったのが心臓病センター榊原病院の創設者で、戦後の新生日本医師会設立に尽力し、衆院、参院議員も務めた榊原亨だ>

 私の祖父である亨は「人生を2倍楽しむ」とよく言っていました。無駄なことは嫌いで何事にも集中し、遊びも豪快。岡山市で最初にグライダーに乗ったのは祖父のようです。本人がそう話していました。新しいことが好きで挑戦をためらわない。それが世のため人のためになるのなら、なおさらでした。

 <亨は福井市生まれ。九州帝国大学医学部に学び、岡山医科大学(現岡山大学医学部)助教授を経て1932年、岡山市の中心部に外科榊原病院を開院した。36年には、胸を匕首(あいくち)で刺された男性患者の救護を要請され、ガーゼで圧迫止血を施す心臓外傷手術を世界で初めて成功させた。動き続けなければ命が尽きる心臓にメスを入れる外科治療は未開の分野。人工心肺を使った心臓手術が軌道に乗るのは50年代の後半になってからだった>

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 当時の心臓外科は、学問として成立するのか、海のものとも山のものともつかず、好んで目指す者はいませんでした。そんな中で祖父が心臓の研究に取り組んだのは、運命に導かれたため、と言えるのかもしれません。

 きっかけはありました。岡山医科大学助教授だった29年には、局所麻酔による収縮性心膜炎の手術を学生の前で臨床講義として行っています。36年の心臓外傷手術は大きな転機となりました。翌年の日本外科学会では、その手術で用いた止血法をめぐって大阪帝国大学の小澤凱夫(よしお)教授との大論争に発展し、その結果、双方が研究を深めました。このことが日本の心臓外科の研究を大きく進める原動力になったのです。

 当時の医学会は今以上に大学を中心に回っていました。祖父が研究に心血を注いだ背景には、患者の命を救いたいという強い思いに加え、地方の民間病院医師の意地というか男気もあったと思います。43年、日本外科学会は祖父に心臓縫合についての宿題報告を要請しました。宿題報告とは、学会が第一人者だと認めた証しです。大学教授であっても一握りの人しか選ばれません。民間病院から宿題報告をしたのは祖父の前にも後にもいないのです。

 <45年6月29日の岡山空襲で外科榊原病院は焼失した。失意の中、亨の心臓研究は一時中断したが、51年には弟の仟(しげる)(東京女子医科大学教授、榊原記念病院を設立)と協力して先天性心臓奇型の一種であるボタロ管開存症の手術に成功。国内心臓手術の戦後第1例になった。亨は47年、衆院議員に当選(後に参院議員)。岡山県医師会会長を経て新生日本医師会の設立に中心的な役割を果たした。日本医師会副会長も務め医療保険制度の礎を築いた。亨の研究を引き継いだ仟は心臓外科の世界的権威となる>

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 父の宣(のぶる)のころから時代は大きく変わり始めます。高齢社会が到来し、食事の欧米化もあって狭心症や心筋梗塞といった虚血性心疾患が増えました。心疾患の背景には糖尿病などの生活習慣病があります。そうした変化に対応するため、大動脈疾患へのステント治療を導入したり、糖尿病専門外来や人工透析室、眼科を開設したりしました。

 2001年には心臓病や生活習慣病予防のためのメディカルフィットネスクラブを開設しています。当時のターゲットは中高年。時代的には早く、いわば先行投資でした。

 同時に高齢社会への対応として、体への負担が小さい低侵襲手術にも積極的に取り組んでいます。07年には胸骨を開かずに右胸の小さな傷から手術を行う心臓の大動脈弁置換術(ポートアクセス手術)に日本で初めて成功し、10年には大動脈弁と僧帽弁の2弁ポートアクセス手術にも成功しました。

 <国民皆保険制度の中、誰もが良質な医療にアクセスできるようにするため、国内医療水準の均霑化(きんてんか)が進んだ。一方で人口減少、超高齢社会、医療財政の逼迫(ひっぱく)もあり、国の社会保障は大きな改革を迫られている。過渡期を迎える中、榊原病院は次の一手を模索する>

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 現在は社会保障費抑制に加え、働き方改革もあり、時代の変化に合わせた変革が求められています。医療現場においてもコスト対効果の議論は必要です。疾病構造も変わっています。昔は弁膜症が主流だったのが、その後冠動脈疾患に移り、今は大動脈解離や大動脈瘤などの大動脈疾患が増えています。時代とともに求められる医療は変わります。大事なことは、ものの本質をつかんで次をどうするのか。心臓・大血管の病院という榊原病院の根本を守りながらも、新しいニーズに応えていけるよう、今後も努力を続けていきたいと思います。(敬称略)

 さかきばら・たかし 1961年、岡山市生まれ。榊原宣の長男。順天堂大学医学部、同大学院医学研究科卒業。ニューヨーク州立Roswell Park癌研究所留学、順天堂大学第1外科外来医長、岡山大学医学部第1外科助手、榊原東病院副院長を経て2012年、社団十全会理事長(第4代)に就任。18年から心臓病センター榊原病院院長(第7代)を併任。日本消化器外科学会指導医、日本消化器内視鏡学会支部評議員・指導医、岡山県医師会理事など。

 さかきばら・とおる 1899年、開業医の長男として福井市に生まれる。九州帝国大学医学部卒業。金沢医科大学助手、岡山医科大学講師、助教授、教授代行(泉伍朗教授の代行、岡大150年の歴史のなかで唯一)を経て1932年、岡山市に外科榊原病院を開設。34年には日本臨床外科学会設立を発議した。岡山県医師会会長、新生日本医師会設立委員長、日本医師会副会長、日本臨床外科医学会会長、衆議院議員、参議院議員などを務めた。92年死去。

 さかきばら・ひろし 1917年、福井市生まれ。榊原亨の弟。岡山医科大学卒業。岡山大学医学部講師、同大学医学専門部教授、国有鉄道四国管理局四国鉄道病院外科医長などを経て57年に榊原十全病院院長、82年には社団十全会理事長(第2代)に就任した。岡山県病院協会会長、全国病院関係団体等の役員を歴任。榊原病院の法人化、24時間・年中無休の救急受け入れ体制を確立した。94年死去。

 さかきばら・のぶる 1931年岡山市生まれ。榊原亨の長男。岡山大学医学部卒業。同大学医学部第一外科講師、東京女子医科大学教授、同大学第二病院長、順天堂大学教授などを経て、91~2012年社団十全会理事長(第3代)。02年、日本医師会最高優功賞を受賞。順天堂大名誉教授。専門は消化器外科。
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2021年01月18日 更新)

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