文字 

(3)悪夢の理由 拭いきれない不在時の不安

餅は古来の縁起物。「ハレの日」の食卓を飾り、力を与えてくれる

 私はあっけにとられて、網棚の上に置かれた自分の折り畳み傘を見詰めている。その傘を屈曲点として、この列車は「く」の字に曲がり、脱線したのだ。この傘が異次元的な力学の異常を生じさせた。

 そして、呆然自失(ぼうぜんじしつ)の私を別の自分が冷静に視(み)ている。傘を網棚に置くという行為が、この惨事を呼び起こした。脳裏には乗客の阿鼻叫喚(あびきょうかん)、私への罵詈雑言(ばりぞうごん)が渦巻く。しかし、私の心は虚(うつ)ろで、遠く谺(こだま)する鵺(ぬえ)の鳴き声が溢(あふ)れる洞窟にいるかのごとくなのだった…。

 はっと気付く。「ああ、あれは悪夢だったのか」。枕元の置き時計は朝の4時前を指していました。診療所近くの官舎のベッドです。冷え込んできた10月下旬なのに、寝間着は汗でぐっしょりと濡れていました。

 その前日は午後休診の木曜日。いろいろありました。倉敷市まで出かけ、3月まで所属していた大学で取り組んでいた、健康増進住宅の構築に関する住宅メーカーとの共同研究について、約2時間にも及ぶ監査を受けたのでした。

 やっと終わって村に戻ろうとしていた時、看護師さんからの電話です。「Hさんの息子さんからで、お母さん、左半身が震えていると。意識や会話は普段と変わりないのですが」

 この患者さん、いつもの診察で、左上肢に本態性振戦がありました。特に問題となる原因がなく、手や頭に震えが生ずる病気で、高齢者によく見られます。通常、それ以上の増悪も起きないはずなので、様子を見て翌朝に受診してほしいとお願いしたのでした。

 しかしその後、看護師さんからショートメール。「ご本人と直接話したら、左半身全体が震えるというので、救急搬送してもらいました」とのことでした。

 その後は連絡も取れないまま、翌朝を迎えたのです。その居心地の悪い状況が悪夢を招いたのかもしれません。

 診療所を不在にしたときの不安と、患者さんを診ないまま指示を出した後の疑念は、なかなか拭いきれるものではありません。

 脳梗塞などの可能性は低いと思っていても、まれなケースを否定はできません。祈る想(おも)いを抱き続けなければなりませんでした。幸い救急車で病院に到着した頃には症状も消え、頭部CTでも異常はなかったと、翌朝診療所を訪れた息子さんが話してくれました。

 私が着任する以前の何年かは、診療時間以外は医師不在の状態が続いていました。そのころよりは、村民の方には安心していただいているのかもしれません。

 春先には、夕食後にめまいの患者さんに来院してもらい、私も診療所に駆け付け処置をしました。夏の夜中にたたき起こされて、鎖骨骨折疑いの方を診たこともありました(看護師さんには感謝絶大)。

 とは言えいや応なく村を離れる場合もあります。そうしたときには考え得る限りの最善策を。日々の反省が前進を支えてくれていると信じています。

 その日の夜は験直しです。買い置きの村の名産「ひめのもち」をすましの雑煮で、ほっと一息。ふうふう言いながら食べた後は、夢を見ることもなく、ぐっすりと眠れました。
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2021年11月18日 更新)

ページトップへ

ページトップへ