文字 

(7)先人から学ぶ村の医療 日々精いっぱい務める

旧大崎医院の近くのがいせん桜通り

 今冬の新庄村は、降雪の日も多く、厳しい寒さが続きました。

 そんなある日、診療開始時間前に80代半ばの女性の来院です。鼻血が止まらないと。血管を絞める薬を混ぜたガーゼを挿入、看護師さんも一緒に鼻梁を圧迫、出血は次第に止まりました。鼻出血はボタボタ落ち、奥に流れて口に逆流し、そして血の味、さぞや驚かれたことでしょう。お薬手帳では、普段は峠を越えた先の病院に通院していて、特に血液サラサラの内服剤も無く、しばらく様子を見て、頃合いで御帰宅いただきました。

 実はこの方、戦後から長年、村の医療を支えて来られた大崎正之先生の奥様でした。

 昭和28年、村はがいせん桜通りを曲がったところに診療所や医師住宅を新設整備し、米子医大から医師派遣を仰いで村民の福祉を増大安定させました。村史には、相当の経費がかかったとの記述があります。

 その村史に昭和27年から約8年間、27人の派遣医師の名が記載されています。その中で30年から34年までお1人だけの記載が大崎先生で、最も長く勤められました。その後、鳥取県岩美町の病院勤務もされるのですが、村長や村議の方々からぜひとも復帰をとの嘆願で、昭和36年に前述の診療所で開業されました。

 派遣の頃、穏やかなご性格で村民に慕われ、また肺結核の診断と治療が功を奏した稀有(けう)な症例もあり、村の代表団が岩美町に宿泊までして復帰を乞(こ)う事態だったとは奥様の弁です。

 現在の診療所の事務担当者が大崎医院に勤務経験があり、先生のお人柄はまさに「温厚」とのこと。幼児から高齢者まで診られ、外科志望でいらしたそうで縫合などもされ、診療所であるいは往診先で、ご多忙を極められていたのでしょう。事務担当者のお姉さまが虫垂炎になられた際も、通常と異なる場所の疼痛(とうつう)にもかかわらず名診断で病院転送し、手術に携わった医師から賞賛されたとの逸話もあります。

 赴任後しばらくはオートバイで砂利道を、雪深い時には徒歩で山間まで往診され、看護補助であった奥様も一緒に揺られ、でこぼこ道で落ちてしまった(オートバイから?)こともあったと笑っておられました。

 40年余にわたる地域医療への貢献で昭和62年のへき地医療功労賞、平成9年にはその中央表彰で天皇陛下拝謁の栄に浴されました。

 息抜きは、真庭市落合の病院にいらした同門の先生との談笑、ついでにパチンコをされていたと。それもまたほほえましいですね。

 平成21年、ご逝去される少し前に閉院されたようです。奥様は村のご出身で、現在も診療所のあった場所でお元気に過ごしていらっしゃいます。

 お住まいから西へ、角を曲がるとがいせん桜通り。満開も間近です。連綿と続く医史の中に足跡を残せるとしても、それは日々の診療を精いっぱい務めることに尽きるのでしょう。日々是精進、そして、好きな言葉の「雲心月性(うんしんげっせい)」を胸に秘めて。今日も白衣に袖を通します。
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2022年04月04日 更新)

ページトップへ

ページトップへ