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ヒ素ミルク 未開封缶とカルテ現存 岡山大保管 教訓伝える貴重な史料

岡山大医学部に長年保管されていた森永ヒ素ミルク事件の未開封缶

岡山大病院の第1号患者のカルテの写し。左上に赤字で「森永」の押印と手書きの通し番号が振られている

 1955年に発生し、1万3千人超が被害を受けた森永ヒ素ミルク事件で、粉ミルクに含まれていた有毒物質のヒ素を特定した岡山大医学部(岡山市)に、これまで現存が確認されていなかった未開封の粉ミルク缶と、同大病院の第1号患者らのカルテが保管されていることが20日、関係者への取材で分かった。戦後最大の食品中毒とされる事件の記憶と教訓を今に伝える貴重な史料となりそうだ。

 同大医学部は当時、岡山県内外で皮膚が黒ずみ、肝臓が腫れた乳児の患者が相次いだことから原因解明を急ぎ、55年8月に森永乳業(東京)の粉ミルクに混入されたヒ素による中毒と初めて特定。70年には広島県瀬野川町で被害児を追跡調査し、知的発達の遅れといった後遺症を医学的に証明するなど同事件と深い関わりがある。

 未開封缶(高さ11センチ、直径10センチ)は、追跡調査を行った疫学・衛生学分野教室(当時は衛生学教室)の金庫に長年保管されていた。側面に「森永ドライミルク」と記され、缶底には「MF5506」とロット番号が打刻されている。ヒ素が混入した徳島工場で55年5月6日に製造されたことを示すという。

 国は事件発覚後、販売店や家庭から徳島工場が製造した約70万本を回収しており、森永乳業や被害者団体などでも未開封缶は確認されていない。同教室は70年ごろ、支援する被害者家族から回収漏れの缶を譲り受けたとされる。

 カルテは、同大医学部に残されていた各診療科の数十年分の中から複数の被害者のものが見つかった。いずれも「森永」の印字と手書きの通し番号が付けられていた。

 「森永 1」と記されたカルテの初診日は、原因がヒ素と特定される約1カ月前の7月23日。生後8カ月の男児の名前が書かれ、ヒ素中毒の症状である「皮フの色素沈着」の所見と共に、「敗血症として輸血」「死亡退院 8月7日」などと記載されている。

 未開封缶と第1号患者のカルテ(写し)は同大医学部内の医学資料室で4月以降に一般公開される。保管状況や経緯などを調査した同大客員研究員の木下浩・医学資料室長補佐(医学史)は「後遺症に苦しむ被害者は今も多く、決して終わっていない問題。食の安全や企業責任の在り方を考え続けていくための貴重な史料として守り続けたい」と話している。

風化防ぐ契機に
 森永ヒ素ミルク事件の被害者救済団体・ひかり協会(大阪市)の前野直道理事長の話 70年近くの歳月を経て未開封缶と当時のカルテが確認されたことに大変驚いている。事件の風化を防ぎ、過ちが二度と起きないよう改めて考える契機にしてほしい。

 森永ヒ素ミルク事件 1955年4~8月に森永乳業徳島工場で製造した粉ミルクに大量のヒ素が混入、飲んだ乳児が高熱や下痢などを起こし、約130人が死亡した。73年11月に業務上過失致死傷罪で工場関係者の有罪が確定。同12月、被害者団体「森永ミルク中毒のこどもを守る会」(現森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会)と森永乳業、厚生省(現厚生労働省)の三者が恒久対策案に合意、翌年に救済団体「ひかり協会」が発足した。
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2023年03月22日 更新)

タグ: 岡山大学病院

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