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森永ヒ素ミルク事件50年 消えぬ心身の後遺症 被害者の5割 単身生活困難 保護者高齢化、将来に不安

乳児を抱き、心配そうに診察を待つ母親たち=1955年8月24日、岡山赤十字病院

 岡山、広島、香川など全国で1万3000人以上の被害者を出した「森永ヒ素ミルク事件」から50年。安全であるはずの粉ミルクに、人生を大きく変えられた被害者は50歳前後、両親は70~80代の高齢者となった。今も知的障害など心身の後遺症に苦しみ、将来の生活に不安を抱き続けている。

 「死の粉を栄養分と信じ、嫌がる長女に与え続けていたんです」。備前市の母(77)は涙を浮かべながら語る。長女が生まれたのは一九五四年末。母乳の出が悪く、近所の薬局で森永乳業の粉ミルクを購入し長女に飲ませていた。

 異変は数カ月後に表れた。三九度を超える高熱と激しい嘔吐(おうと)。長女は一日中泣き続け、駆け込んだ近所の病院で「原因不明」と告げられたという。

 同じころ西日本一帯では、乳児に奇妙な病気が広がっていた。発熱、下痢、貧血、皮膚が黒くなるなどが共通の症状だった。岡山大病院や岡山赤十字病院に、幼い子を抱えた母親が長蛇の列をつくった。

 五五年八月二十四日、岡山県は「森永ミルクにヒ素が混入」と発表した。

 長女は現在五十歳。知的障害、難聴、骨の発達不良が残り、自宅療養を続ける。「もし違うメーカーのミルクを飲ませていたら、長女は就職、結婚、出産と幸せな人生を送ることができたはず。毒を飲ませたばっかりに…」。母は今も自分を責める。

 同十二月の厚生省(当時)発表によると、全国で百十三人が死亡、一万千七百七十八人が被害を訴えた。岡山では二十二人が死亡、患者は千九百十八人に上り、全国最悪だった。

 さらにヒ素中毒のため、被害者に重い後遺症が残っていることが明らかになったのは、大阪大教授らの追跡調査によるもので、発生から十四年後だった。

 森永乳業からの資金で運営している被害者の救済組織「ひかり協会」(大阪市)によると、現在の被害者は一万三千四百二十人。岡山千八百七十三人、広島二千四十八人、香川五百六人に上る。

 単身生活や、結婚して独立した生活を送っている人は四割弱。親との同居、共同生活、施設入所など一人での生活が困難なのは五割。将来について、約四割が「両親や施設に頼って生活するしかない」とする。保護者が高齢化する中、生活への不安を訴える被害者は少なくないという。

 同協会の平松正夫常任理事は「両親に代わり誰が世話をするのかが、今後の被害者救済の鍵になる。自立した被害者の働く場、生活の場の確保も重要だ」と訴える。

 六二年から被害者救済運動に参加している岡山市米倉、自営業能瀬英太郎さん(68)は「最大級の食品公害事件が起きてから半世紀たったが、被害者が負った心身の傷は深く、消えることはない。企業は安全管理責任の重さをなどを、あらためて真摯(しんし)に考えなければならない」と話している。


ズーム

 森永ヒ素ミルク事件 森永乳業徳島工場で製造された「森永ドライミルク」のため、1955年に発生した大規模な中毒。大量のヒ素を含んだ工業用の第2リン酸ソーダを、安定剤として混ぜたのが原因とされた。同工場の製造課長が業務上過失致死罪で起訴され、徳島地裁は73年11月、実刑判決を言い渡した。同12月、「森永ミルク中毒のこどもを守る会」と森永乳業、厚生省の三者が恒久対策案に合意した。
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2005年05月09日 更新)

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