文字 

第10回 岡山済生会総合病院院長 間野清志  胃がん手術 メス振るい治癒率向上

 間野清志(1922~2001) 戦後の三十八年間、岡山済生会総合病院の外科医として消化器手術二万二千例を記録した。病院の近代化で年々外科手術数が増え、副院長、院長になっても先頭に立って手術を行い、開腹手術全盛の時代背景の中、メスでがんと闘った。

手術は「出血を少なく、手際よく」を心掛けた間野院長

 日本人の国民病と言われた胃がんに敢然とメスを振るい、生涯胃がん手術数三千七百一例に及ぶ外科医間野清志の人生を振り返る。

 昭和二十六(一九五一)年、外科医長として岡山医大から赴任。二十九歳の外科医はさっそく胃がん手術二例に挑んだ。手術台は一番簡単な平板というお粗末な手術室。翌年、タイル張りの手術室ができ、胃がん手術は年間五例、六例、十四例と増えていった。単純なレントゲンしか検査方法がなく、発見が遅れ死亡率が高かった。

 「とにかく早く発見を」と考え、同三十二(一九五七)年、胃鏡を岡山県で初めて導入した。金属製で曲げることができず、患者は口、食道、胃を一直線にし胃内部をのぞく。翌年には胃カメラも導入、フィルムで見られるようになった。さらに胃カメラ内視鏡、直視できる内視鏡と最新の診断機器を導入し手術は年間五十例を越えた。一週間に一~二例手術し胃内部を見た。切る前のレントゲン読影、胃カメラ、内視鏡と照らし合わせ、診断力を磨く。術後の症状が経験の積み重ねで予測でき患者管理がうまくなる。継続は力なり―手術が、間野を育てていく。

 十年間の手術結果をまとめた。三百三十三例で五年生存率31・9%、東京の癌研究会病院、岡大外科をしのぐ治癒率だった。「早期発見で、患者が救える」。手応えを感じ出した。昭和四十年代、胃がんは年間百例を超えた。

 内視鏡も技術革新が進み、がん病巣の位置、広さなど早期がんは把握できるようになった。抗がん剤投与にも取り組んだ。切るだけの外科医ではなかった。患者を救命する努力をし、治癒率向上にこだわり、進取の気性のある間野は新しいことを積極的に取り入れた。

 同五十二(一九七七)年胃がん手術二千例を突破、五年生存率は49・1%に上昇した。この年百八十三例は年間最多記録。全国の病院のベスト10に入った。手術日は週三日あり、間野は一日二~三例の手術を終えると深夜、懐中電灯を持って患者の部屋を回り術後の経過をみた。「顔を見るだけでわかる」と言い、患者とのコミュニケーションを大事にした。「懐中電灯回診」と呼ばれ、伝説として今も語られている。

 当時、外科は医師十二人。年間千五百例の内臓手術を行う猛烈な手術医集団だった。

 同五十九(一九八四)年、院長に就任。しかし、メスは離さなかった。平成元(一九八九)年、六十七歳になって覚悟し、三十八年間の外科医生活に終止符を打った。

 胃がん手術で百歳以上生きた患者が二人もおり名医の証しとなった。

 「熱意の人でした。治癒率向上で、外科の済生会と呼ばれる信頼を築いた」と岩本一寿常務理事は言う。今、早期胃がん(ステージ1A)の治癒率は98%。間野たちの努力は胃がんが治る時代にした。「施薬救療以テ済生ノ道ヲ弘メムトス」明治天皇の済生勅語をメスを通して実践した。

 日本画家稲葉春生氏を手術した縁で弟子入りし県展入賞の腕前。「紫陽花」が愛娘の医院待合室に飾られている。


医家俊秀

 間野は百人を越える外科医を育てた。その外科医たちが中四国で活躍している。片岡和男、広瀬周平両名誉院長は一緒に手術した外科医。現職では筒井信正院長代理が胃、大腸、大原利憲副院長が肺がん、食道がん、木村秀幸副院長が乳がん、緩和治療、三村哲重副院長が肝臓、胆道、すい臓の手術で、それぞれ腕を振るっており、岡山済生会総合病院は手術症例数、治癒率など治療実績は岡山県内トップクラスにある。(敬称略)
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2005年08月16日 更新)

カテゴリー

ページトップへ

ページトップへ