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第4回 日本脳炎研究 岡山大初代学長 林 道倫 ( みちとも ) 病原体発見へ道開く

岡山医大学長、岡山大学長を務めた林道倫(林道倫論文集から)

 大正十三(一九二四)年七月、岡山医大精神科教授林道倫は着任した。日本の精神病研究の先駆者呉秀三東大教授の教えを受け、同級生には歌人の斎藤茂吉がいた。十年の薫陶を受けた後、三年間のドイツ留学を終え、帰国したばかりの新任教授を待っていたのは日本脳炎の流行だった。

 古くから岡山、香川は高温の夏の年は脳炎が発生、風土病説もあった。頭痛、高熱、意識混濁、眠くなるという症状で、新聞には「なぞの眠り病」と書かれた。それが過去最高の流行となって林を迎えた。さっそく高熱の患者を診察し「何か新しい流行性の脳炎ではないか」と診断を下した。その通りになった。精神科、内科で脳炎患者が増え、この夏患者六百五十六人、死者四百四十三人と猛威を振るい、死亡率の高い原因不明の奇病と恐れられた。

 林は病理解剖に追われ、解剖検査、組織検査を行い究明に乗り出した。昭和に入り、林らの研究で子供、若者、老人に多く、全国に患者がいることがわかり風土病説は消えた。感染は人間のつばが飛ぶ飛沫伝染、蚊が媒体してうつす二説。全国の大学が病原体の発見に懸命だった。

 そんな中、昭和八(一九三三)年林は死亡した患者の脳髄の抽出液をサルの脳に接種、サルに脳炎を発症させることに世界で初めて成功した。林の名は広く知られ、こうして脳炎ウイルス研究の道を開いた。

 その後、多くの研究者により、コガタアカイエ蚊が媒介することが判明、予防接種、蚊の駆除で激減、岡山県は昭和五十七(一九八二)年以降発生していない。

 林は昭和六(一九三一)年、二度目のドイツ留学の時恋愛しエリザベート夫人との海を越えた結婚は話題になった。四十六歳の新郎は、やがて生まれてくる二人の娘をでき愛したという。

 精神医学の研究者として最大の功績は「統合失調症の発症メカニズムを生化学的に解明しようとする、新しい視点からの研究を始めた。これは卓見」と大月三郎岡山大名誉教授。

 患者の血液に着目した。脳の呼吸力が落ち、それが病因とつながっているのではないか、と考えた。耳の後ろで脳を回ってくる静脈血の採取法を考案、動・静脈血をガス分析して脳代謝を調べた。急性期、炭酸ガスの産出が著しく低下している事実をつかみ学会発表した。

 昭和二十三(一九四八)年、文部省の研究班長に就任、生物学的研究により、戦後の精神医学界のリーダーとなる。

 翌年、岡山大初代学長に就任、第一回入学式で「新しい岡山大学が専ら人民の力によって作られたという点に深く心をとどめなければならぬ」「時流に迎合せず、長いものにまかれることなく、他人の思想の無条件エピゴーネン(追随者)となることなく、自己の思想目標を樹立しなければならぬ」と式辞。反骨、革新の人の真骨頂を表す。

 昭和二十七(一九五二)年、岡山大退官、林精神医学研究所、林道倫精神科病院を設立した。富井通雄元岡山県立病院長は医大三年生の時、生物学的研究を手伝い、精神科入局、林病院副院長まで二十二年間、恩師と行動を共にした。「人情味があり古武士の風格があった」と言う。晩年、病んでベッドに横たわるとゲーテの詩集を原語で読んだ。

 秋になると岡大正門通りのイチョウ並木が美しく色づく。これは林が退官記念の植樹で残したもの。昭和四十八(一九七三)年八十八歳で死去。

 (敬称略)
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2006年09月05日 更新)

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