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第6回 子宮がん手術 岡山大学長 八木日出雄 高治癒率 世界に名声

手術標本を見る八木

 子宮 頸 ( けい ) がんの手術法では欧米に普及したベルトハイム術式をしのぐ治療成績をあげ、広く知られているのが「系統的広汎性子宮全摘出術―岡林術式」。これは八木日出雄の京大の恩師岡林秀一が考案した。

 岡林は明治四十三(一九一〇)年から六年間、岡山医学専門学校教授を務め、その後京大教授になり、研究を重ね子宮頸がんの根治手術法「岡林術式」を発表した。当時は子宮入り口にできる頸がんが九割、子宮 腔 ( くう ) の体がんは少なかった。

 八木は岡林に見込まれ、二十代から三十代の十年間、岡林術式を直伝された。がん細胞を残さないため、がん進行の経路となる両側の子宮基 靭帯 ( じんたい ) を広範に摘出し周辺のリンパ節まで 廓清 ( かくせい ) 。出血を少なくし、神経を残して排尿機能を温存する手術。若い八木は子宮を中心に骨盤組織を解剖学的に頭に入れ、尿管、血管、神経の位置関係を把握してメスを進め、手技を高めていった。

 昭和九(一九三四)年、八木は岡山医大教授に選ばれた。岡林は弱冠二十七歳で教授となった思い出の地に、三十四歳の愛弟子を送り出した。八木は岡林術式をライフワークにし手術数を増やし腕を磨いた。医局員は戦地へ赴き少数になったが、研究を怠らなかった。

 当時、麻酔は主に腰椎麻酔、二時間半で切れる。輸血はまだなく出血は少なくという制限の中で、早く、広く、きれいにがん病巣を除去する手術が求められた。手際よく進む八木のメスさばきは「手術の達人に見えた」と秋本若二岡山赤十字病院名誉院長は言う。

 二十六(一九五一)年、八木が岡山に来て執刀した岡林術式の子宮頸がん手術は千例を超した。

「手術数の多さでなく切った後の経過の良さ、治癒率が大事と言われた」と中川清元講師。昭和二十五(一九五〇)年から七年間の五年生存率はⅠ期84・6%、Ⅱ期62・6%、Ⅲ期29%、Ⅳ期10・5%。八木の見事な手技、岡林術式の卓越性を裏付けた。

 岡林は他界、継承者として高い治癒率を挙げる八木の名は世界に広まり海外で手術を見せた。「子宮がんの岡大」と評価は高まった。

 三十二(一九五七)年

子宮頸がん二千例記念式が岡大医学部講堂で開かれた。手術した一号、千例、二千例の三人の患者が元気な姿で紹介され、八木は「すべての手術を岡林術式で行い、あくまで正統を守り続けてきた」と話した。翌日、京都で墓参し恩師に二千例達成を報告した。

 翌年、岡山大学長に選ばれた。林道倫、清水多栄に次ぎ三代目。二十四年間の産婦人科教授にピリオドを打った。八木の活動はがん全般へと広がる。岡山対 癌 ( がん ) 協会長に就任、マスコミ、行政とともにがん制圧運動の先頭に立つ。二年後、医学部に癌源研究施設を開設、発がんのメカニズム、抗がん物質などの研究拠点を築いた。

 四年間の学長生活を終え、同三十七(一九六二)年退官、川崎癌研究所所長に就任。この年十月、会長として日本癌学会総会を岡山で開催、生涯をかけてがんと取り組んだ八木の花道となった。

 趣味は外国語で、世界共通語・エスペラントの大家。北野中学の時に知り、三高でエスペラント部をつくり、岡山でも活発に活動、世界エスペラント協会長になった。フランス、スペイン、イタリア、中国など約三十の言語を読み書きした。

 最終講義の講義係を務めた堀章一郎産婦人科院長は「名講義に魅せられて産婦人科を選んだ」と話す。晩年、書を求められると「慈心妙手」としたためた。

 (敬称略)
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2006年09月08日 更新)

タグ: 岡山大学病院

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