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第7回 胃がん拡大根治術 陣内傳之助  転移防ぎ治癒率向上

晩年は臓器移植の基盤づくりに取り組んだ陣内

 昭和二十三(一九四八)年、岡山医大第一外科教室に教授陣内傳之助が九大から着任した。医大病院はまだ黒色に迷彩を施し戦時中のまま。町にはバラック住宅が建ち始めていた。当時、外科では消化器外科を中心に整形外科、肺結核手術など幅広く手術、研究が行われていた。

 三十五歳、まだ日本で数少ない脳手術の専門家だった。うわさを聞いててんかん、脳 腫 ( しゅ ) 瘍 ( よう ) などの患者が増えた。しかし、胃がんの患者が年々増え、がん治療が外科学会の大きなテーマになり、第一外科医局員の目標は胃がん切除術のマスターだった。教授就任五年間で胃がん手術二百四例、一年生存率50%、三年22%、手術しても亡くなる患者が多く、根治は遠かった。がん病巣を取り残さず、再発させないために、どう切るか―治癒率向上が外科医の大きな課題だった。

 陣内は産婦人科教授八木日出雄が行う治癒率の高い子宮 頸 ( けい ) がんの広汎子宮全摘術、つまり子宮とその周辺のリンパ節を全部 廓清 ( かくせい ) する手術法がヒントに浮かんだ。リンパ節は各臓器の周囲にあり免疫機能があるのでがん細胞と闘うが、ここにがん病巣があれば血液とともに全身に回り、遠隔転移の原因になる。胃患部を摘出しリンパ節を廓清すれば転移の可能性は少なくなる。それまで二時間だった手術が、五時間になったが麻酔法も進歩し治癒率は上がった。

 陣内が開発したリンパ節を予防的に徹底的に廓清する「胃 癌 ( がん ) 拡大根治術」は学会で認められ多くの大学病院が導入した。

 四十七歳の夏、陣内は肝炎になり二カ月近く入院した。振り返れば教授就任から十二年間、がむしゃらに走ってきた。学生の講義は午後二時から五時間、その後手術を見せ、終わるのは九~十一時、遅いと午前一時を越えていた。人生訓を述べ、医学生を 叱咤 ( しった ) 激励した。

 同じ岡大の第二外科は胃がん手術数も多く、実績があった。津田誠次教授は東大出身、十九歳年上で教授暦も長い。昭和二十九(一九五四)年、岡山市公会堂で日本外科学会総会を開催、会長をつとめる実力者。だから、負けたくなかった。また、走り出した。

 全国の外科教授らに呼びかけ胃癌研究会を発足させ、がん進行度など胃癌取り扱い規約を作り、初めて手術成績を共通のものさしで話せるようにした。エネルギッシュに話す行動力が認められ、学会の若手リーダーとして台頭していく。

 昭和三十七(一九六二)年、大阪大教授に選ばれ、舞台は一つ大きくなった。発言力も増して、消化器がんでは中山恒明東京女子医大教授、梶谷環癌研究会病院長と並んで三羽 烏 ( がらす ) と言われるようになった。

 岡山大第一外科はその後、田中早苗、折田薫三、田中紀章が教授となり、消化器がん、腎臓、肝臓移植の研究で国内トップレベルにある。田中紀章教授は「脳外科が専門だった陣内先生が消化器がんで日本を代表する外科医になられた。人知れず努力されたと思います。今、拡大根治術は少なくなったが、がんの外科では功労者」と話す。

 アメリカ式に外科で麻酔医を養成、岡山大の麻酔学、脳神経外科学教室開設の基礎を築いた。

 教え子が各地の病院へ赴任する時、その人にふさわしい二文字の銘を彫って贈った。龍王(甲斐太郎広島市民病院長)至誠(間野清志岡山済生会総合病院長)清風(高越秀明玉島中央病院長)天聲(山本泰久おおもと病院長)治国(岡島邦雄大阪医大教授)獅吼(榊原宣榊原病院理事長)ら岡山時代の教え子三百四十三人に及ぶ。
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2006年09月12日 更新)

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