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第7回 岡山大医学部教授 新見嘉兵衛 視床脳の研究 線維結合の機構解明

学士院賞受賞の記念写真。新見夫妻と平沢元京大学長(右)

 モーニング姿の新見嘉兵衛岡山大医学部第三解剖学教室教授は緊張した面持ちで有沢広巳日本学士院長の前に立った。正面には昭和天皇がご臨席されている。

 「貴下の視床に関する研究が学術の進歩に著しい貢献をしたことを認め日本学士院賞賞 牌 ( はい ) および賞金を贈る」と賞状を手渡された。

 昭和五十九(一九八四)年六月十一日、東京・上野、日本学士院で学士院賞授賞式が行われた。式に先立ち、新見は天皇に説明した。「私の研究は脳の基本的な機構に関するもので、間脳の視床という所を中心に研究しました」と話し視床の線維結合の実験による証明を説明した。陛下から長年の研究に対するねぎらいのお言葉があった。

 学士院会員席には恩師平沢興元京大学長がいた。新見は深々と頭を下げお礼の言葉を述べ、妻雪路と三人で記念写真に納まった。学者として生涯最良の日だった。

 大正八(一九一九)年淡路島の洲本で生まれ、昭和十五(一九四〇)年、新潟医大に入学、解剖学教授だった平沢に出会う。四十歳、若く、エネルギッシュに講義し、黒板いっぱいに脳の構造を描いて見せた。興が乗るとペスタロッチ、ヒルティ、パブロフら世界の偉人を語る平沢に引き寄せられ、卒業すると解剖学教室へ入った。

 陸軍軍医として応召、終戦後、母校京大教授になった平沢に従い、新見も京大へ移り助手、講師になった。

 平沢の研究テーマは脳 脊髄 ( せきずい ) 運動神経の 錐体 ( すいたい ) 外路。実験で大脳皮質から多数の錐体外路線維が出ていることを証明し、昭和二十六(一九五一)年、日本学士院賞を受賞した。この研究を手伝った新見は授賞式に随行し、天皇に説明する時、顕微鏡写真、標本などを展示する役を果たした。授賞式後のパーティーには法学、工学、文学、医学などあらゆる分野で日本を代表する学者がそろっていた。まだ名もない新見は「自分も将来いつの日かこの賞を取りたい」と心に誓った。三十一歳だった。

 この年、京大助教授になり、視床の研究を本格化する。喜び、悲しみなど人間らしさをつかさどる大脳皮質、この大脳皮質へ送る情報を取捨選択しコントロールするのが視床。ここから情報伝達の回路がどう張り巡らされているか、その線維結合の機構、役割を明らかにする実験に取り組んだ。

 昭和四十(一九六五)年、徳島大教授から岡山大教授へと転任、新しい研究拠点岡大は神経解剖のメッカと言われ、前任の上坂熊勝教授は大正二(一九一三)年、脳神経起首の研究で学士院恩賜賞を受賞していた。願ってもない伝統の舞台で一層実験に励んだ。

 昭和五十三(一九七八)年、アメリカ解剖学会名誉会員に選ばれた。日本人で二人目。英文での研究発表が認められた。新見は世界の解剖学者の動きに目を光らせていた。先を越されたくない。視床の線維結合の解明では自分が先陣を切っていると自負していた。

 岡山で雌伏十九年、昭和五十八(一九八三)年、視床のメカニズムを解明し「視床脳」(九州大学出版会)を本にまとめた。それが評価され、翌年学士院賞が決まった。六十四歳になっていた。三十一歳の時の夢は実現した。

 学士院賞受賞祝賀会が岡山で開かれた。大藤真学長は「岡大として最高の栄光」と話し、恩師平沢元京大学長は「初めて会った時、すばらしい学生という印象は間違いなかった。受賞は当然」と祝辞を贈った。恩師の目にくるいはなかった。花束を贈られた新見は「岡大は神経解剖学のメッカであり、その灯を消さずにすんだ」と喜びを語った。

 これまで岡大で学士院賞を受賞したのは新見、上坂、桂田富士郎(日本住血吸虫)清水多栄(胆汁酸)高原滋夫(無カタラーゼ血液症)の五人。 新見は、三十三年に及ぶ息の長い研究で大輪の花を咲かせた。(敬称略)
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2007年06月14日 更新)

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