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第2部 「いのち」と向き合う (1) 再スタート 苦痛を緩和 生きる実感

自宅近くを散歩する河島さん。がんを抱えながらも前を向いて歩けるようになった=岡山市

 硬いアスファルトの道を避け、土の感触を確かめる。つえを突き、一歩一歩。初冬の土手は空気が澄み、足元には色鮮やかな落ち葉が残っていた。

 「踏むのがもったいなくて。拾って帰ってスケッチすることもあります」

 河島三義さん(57)=岡山市北区北方=は散歩を始め、季節の変化を肌で感じられるようになった。

 「以前はこんなに心の余裕がなかった」

 青果物の卸会社に勤めていた2008年夏、大腸がんが見つかった。既に肝臓、肺、リンパ節に転移し、手術できる状態ではなかった。「何もしなければ(余命は)3カ月」と言われ、すぐに抗がん剤治療が始まった。

 薬は劇的に効いた。がんの進行度を示す 腫瘍 ( しゅよう ) マーカーの数値が10分の1まで下がった。

 ところが―。

  ~

 手足がしびれ、はしが使えない。貧血でトイレに行くのもふらつく。何を食べても味がしない…。

 抗がん剤治療は2週間に1度。自宅から通院し、長さ十数センチのポンプの携帯用注入器からチューブで鎖骨の下に流し込む。すぐに激しい副作用が襲ってきた。

 「体調がいいのは2週間のうち2日ほど」。体重は激減、腕時計をするとバンドとの間に指が3本入った。

 河島さんは一人暮らし。食事ができず何度か緊急入院もした。

 なぜこんなに苦しいのか。この先どうなるのか。不安が募り、うつ状態にもなった。

 「生きたい。負けたくない」。ゼリーの栄養食品を無理やりかきこんだ。だが、免疫機能が戻らず、抗がん剤を体が受け付けない時さえあった。

 昨年7月。体調不良で入院。これを機に、積極的治療はやめた。

 「もうだめなのか…」。絶望するはずなのに、不思議な 安堵 ( あんど ) 感があった。「落胆の一方でほっとした。苦しみからの解放。これが大きかった」

  ~

 河島さんは9月、岡山済生会総合病院(岡山市北区伊福町)の緩和ケア病棟に短期入院した。がんの痛みを医療用麻薬などでコントロールする。ゆっくりと静養できた。

 同病院の緩和ケア病棟は1998年に開設。全25床。専門の医師3人、看護師16人と非常勤の精神科医、臨床心理士らが患者を支える。

 気持ちが最も落ち着いたのは、医師や看護師が話をよく聞いてくれたことだ。今まで対処してもらえなかった片頭痛にもすぐに薬をくれた。「温めたタオルを首に当てて」との助言で、うそのように痛みがひいた。

 ボランティアの女性が病室に生けてくれた花を眺めて、ちらしの裏に鉛筆を滑らす。前はがん関連の本ばかり読みあさっていたが、小説や雑誌も手にするようになった。

 「病にとらわれていたな…」。心の苦痛までゆっくり緩和されていくのを感じた。

 「抗がん剤の進歩で、がんを患っていても長く生きられる人が増えている」と同病棟の木村秀幸ホスピス長(副院長)は言う。

 「治療は本来、QOL(生活の質)向上を目指すもの。でも河島さんはそれが保てないほど苦しんでいた。病気でなく、その人全体の苦しみに寄りそうのが緩和ケアだ」

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 河島さんは今、在宅緩和ケアを受けている。開業医や訪問看護師、ホームヘルパーが協力してかかわる。高齢者のデイサービスにも週1回通う。不安を一人で抱えず、家に閉じこもらないようにするためだ。

 音楽を聴き、本を読んで過ごす。病気になる前は当たり前と思っていた暮らしができることに感謝している。

 最近、腫瘍マーカーの数値が少し上がった。がんの進行は不安だが、再スタートさせた生活に後悔はない。

 「『生きている』っていう確かな感じが今はある。残った時間の長い、短いじゃないんです」

     ◇

 病気になっても最期まで自分らしく生きたい―。終末期の緩和ケアの現場を通して、一人一人異なる「いのち」と向き合う医療のあり方を探る。(次回から社会面に掲載します)


ズーム

 緩和ケア 病気に伴う患者の体や心の苦痛を、社会生活の問題まで含め全体的に癒やす。英国で終末期のがんを対象にしたホスピスケアとして始まった。日本では1990年、診療報酬に「緩和ケア病棟入院料」が新設され、現在は全国193(岡山県4、広島県8、香川県1)の病棟がある。WHO(世界保健機関)は2002年、対象をがんに限定せず、早期から導入し、家族にも行う定義を発表した。
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2010年02月23日 更新)

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