文字 

26 ミラノの壁 手術阻む8センチのがん

肝臓がんから奇跡的に生還した岩田さんは自宅を改装して洋食レストランの開店準備に忙しい。ドナーになった長男を手伝い厨房(ちゅうぼう)に立つつもりだ=倉敷市真備町

 移植はがんの治療法ではない。とはいえウイルス性肝硬変が進行すれば、年数%の確率でがんを発症していく。「肝臓死」―脳死や心臓死という言葉があるのなら、この言葉もあり得るだろう―を免れる最後の手段として移植を考える時、がんの存在はまるでハムレットのせりふのような苦悩をレシピエントに突きつける。

 To be,or not to be,that is the question.

 問題となるのはセンチ単位のがんの大きさ。私の場合、がんは見つからなかったのだが、「ミラノの壁」に何度も跳ね返されながら、乗り越えた人がいらっしゃる。

 倉敷市真備町に暮らす岩田勝さん(64)は2007年11月、岡山大病院で生体肝移植を受けた。原疾患はB型肝炎。40歳のころ、すでに肝硬変と診断されていたという。いったんB型キャリアー(持続感染者)になると、ウイルスは姿を現したかと思うとまた潜んでしまい、忍者のように振る舞う難敵である。

 成人の非代償性肝硬変に生体肝移植が保険適用されたのは04年1月。岩田さんも主治医から岡山大病院を紹介され、移植を考えるよう勧められたのだが、当時、長径8センチもあるがんを抱えていた。

 イタリア・ミラノ風のドリアやカツレツはおいしそうだが、「ミラノ基準」はいただきたくないレシピだ。由来はミラノ国立がんセンターが1996年に発表した論文にある。転移や血管侵襲がない肝臓がんでも、大きさ、個数がある一線を越えていると、移植4年後のレシピエント生存率が明らかに低下することを報告した。

 その境界は「径5センチ以下1個または同3センチ以下3個以内」とされ、根拠あるガイドラインとして世界的に受け入れられている。

 基準を逸脱するがんがあれば、せっかく移植しても再発の危険性が高く、貴重なドナーの善意が生かされない結果になりかねない。日本では、生体肝移植に対する保険適用の判定にこの基準が採用されている。

 説明を聞いた岩田さんは、「国が自分の手術を認めていない」と受け止めた。手術を受けても保険が給付されなければ、私の例では1300万円を超えた退院までの医療費が全額自己負担になる。

 コーヒー・洋菓子店に調理師として勤め、最盛期は1日3000個のケーキ作りに追われる生活だったが、肝硬変が進み、やむなく退職していた。4人の息子たちの教育費や自宅購入のローンがのしかかり、蓄えなどない。自費移植はあまりに「遠い話」だった。

 切除できない肝がんには肝動脈 塞栓 ( そくせん ) 術(TAE)が試みられる。がん細胞が栄養を取り込む肝動脈に細いカテーテルを挿入し、ゼラチンスポンジなどでふさいでしまう治療だ。正常な肝細胞は門脈からも栄養供給されているので、がんだけを兵糧攻めにできる。

 岩田さんもTAEを受け、いったんがんは消えた。だが1年後に再発。8個以上が点々と散らばっていた。

メモ

 ハムレット シェークスピアが書いた戯曲の有名な「To be…」はさまざまに邦訳されてきた。世に在る、世に在らぬ、それが疑問ぢゃ(坪内逍遥)▽生か、死か、それが疑問だ(福田恒存)▽生き続けるか、生き続けないか、それが難しいところだ(木下順二)―などが代表的。大幅に翻案、改作した太宰治の「新ハムレット」では「どっちがいいのか、僕には、わからん。わからないから、くるしいのだ」となる。
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2009年10月26日 更新)

ページトップへ

ページトップへ