文字 

旭川荘創立50周年対談(上) 医療福祉掲げ半世紀 障害者支援の確立へ

川崎氏(左)、堀川氏(中)、江草氏(右)=昭和62年4月21日

 岡山市祇園地先、総合医療福祉施設旭川荘が創立50周年を迎えた。赤ちゃんからお年寄りまで、医療と福祉が一体となってケアするシステムを確立し、日本を代表する社会福祉法人になっている。旭川荘の創立に参加し50年の歴史をともに歩んできた江草安彦名誉理事長・荘長と山陽新聞社の越宗孝昌代表取締役社長が旭川荘の障害者福祉の歩みを中心に、これからの地域福祉について語り合った。


 越宗 昭和三十二(一九五七)年四月、肢体不自由児施設旭川療育園、五月、知的障害児施設旭川学園、八月、乳児施設旭川乳児院が開設され、旭川荘の活動が始まった。江草先生は創立に参加し、まさに旭川荘とともに半世紀を歩んでこられた。創立五十周年の感想をまず、お聞かせください。

 江草 いやぁ、感慨ひとしおと言いますか、よくぞここまでという思い、まだこれから旅は続くという思い、そして一番思うのは、ただただ感謝です。旭川荘は創立の時から、創立者の川崎祐宣先生(一九〇四~九六年)が広く岡山県民に協力を呼びかけてできました。本当に多くの方々の善意のおかげです。

 越宗 そうですね、旭川荘の設立発起人には伊原木伍朗天満屋社長・岡山商工会議所会頭、大本百松大本組社長、黒住宗和黒住教教主、清水多栄岡山大学学長、守分十中国銀行頭取ら当時の岡山を代表する人たちが顔をそろえています。

 江草 今はこの方々の二代目、三代目の社長さん方が理事になっていただいて旭川荘を支えてくださっています。

 越宗 きょうは先生に記念すべき新聞を見ていただこうと昭和二十九年七月十四日の山陽新聞を用意しました。

 江草 あっ、旭川荘の建設計画をスクープした記事です。いやぁー見ましたよ、これを読んだ時の興奮と言いますか、胸の高まりが思い出されます。私は昭和二十八年の暮れに川崎先生から構想を聞いていましたので、いよいよやるか、そんな思いで読みました。

 越宗 「民間人の手で 総合社会福祉施設センター」「理想的な平和郷 十年計画で建設」―大きな見出しに白衣姿で語る川崎先生の写真が載っています。この十五年前、岡山市内に「年中無休昼夜診療」を掲げた外科川崎病院を開設されていました。

 江草 川崎先生がこの新聞の当時五十歳、私が二十九歳、みんな若かった。いやぁ、懐かしい。

 越宗 この記事の中で川崎先生は「医学を中心にした明るい社会福祉施設」と話されている。医師が理事長になり、江草小児科医、堀川龍一整形外科医が施設長になって発足した旭川荘。この時から医療福祉という方向性はあったんですね。

 江草 今、越宗社長が指摘された医療福祉が旭川荘の最大の特徴です。当時はまだ形になっていませんでしたが、方向性ははっきりしていました。

 越宗 昭和二十九年夏、新聞で世間に知られ、三十二年春までが胎動期。開設までの準備期間でした。

 江草 この三年間で川崎先生は多くの方々の意見を聞き、岡山医大の二年先輩だった三木行治岡山県知事から岡山博愛会理事長の更井良夫先生を紹介される。更井先生はアダムス女史から博愛会を受け継いだ戦前からの社会事業家でした。旭川荘の設立趣意書は更井先生の筆によります。

 越宗 更井さんは山陽新聞社会事業団常務理事も務められた。更井さんが川崎先生の考えを具体的な実施計画へと進められたわけですか。

 江草 そういうことです。川崎先生は欧米の先進的な医療、福祉施設を視察し、更井先生もスウェーデンなどの福祉施設を見て回られ、考えを固めていく。

 越宗 開設時の旭川荘の全体像はどうでしたか。

 江草 広い旭川の河川敷だったところで、石ころがごろごろしていました。私の旭川学園は男子寮、女子寮に分かれ、廊下で食堂、職員室がつながっていました。堀川先生の旭川療育園は小児整形外科病院として手術をたくさんしていましたから、病棟と訓練室、学習棟など広かったです。

 越宗 小児科医の江草先生が福祉施設の園長になり、大変だったでしょう。

 江草 当初は農業による自給自足をめざしたので、養鶏、養豚をし、サツマイモ、カボチャを植え、石ころの土地を整地するなどすべての作業訓練を子どもたちと一緒にしました。朝六時半のラジオ体操から夜九時の就寝、その後、指導計画づくりと夜十時ごろまで。保母、指導員もみんなよく働きました。

 越宗 そして開設十周年の昭和四十二年、重症心身障害児施設旭川児童院が生まれる。医療福祉施設旭川荘の大きな柱になるのですが、開設するきっかけは。

 江草 障害児のみなさんがだんだん重度化していった。そして知的、感覚的な障害に肢体不自由など障害が複合化してきた。真庭郡のお母さんたちが障害児の全入運動を始めたのです。

 越宗 行政はどう対応したのですか。

 江草 岡山県に話したのですが、だめでした。それで、山陽新聞社の小寺正志社長に会って、事情を話しました。そうすると「新聞で募金を呼びかけましょう。まず、わが社で寄付しましょう」と即決。その場で中国銀行、天満屋など有力企業にも電話してくださり、寄付が決まった。次の日には記事が載った。

 越宗 それがこの記事です。昭和四十年八月二十日の山陽新聞。

 江草 これこれ、これはありがたかったです。


                               (下)へ続く
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2007年05月14日 更新)

カテゴリー

ページトップへ

ページトップへ