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岡山大病院臓器移植医療センター助教 西村慎吾(41) 「患者の人生背負う」ぶれぬ覚悟

岡山大病院で腎移植を担当する西村助教。移植医療のよさを多くの人に知ってもらいたいと願っている(撮影のためマスクとヘアキャップを外しています)

患者の状態を示すモニター画面をチェックしながら、移植手術を進める西村助教(中央)と荒木元朗教授(右から2人目)

西村助教の視線が臓器に注がれる。わずか数ミリの血管や尿管を確実に縫合していく

中川章治郎さんと恵美さん

 2022年4月、岡山大病院(岡山市北区鹿田町)で腎移植を手掛ける移植医の西村慎吾(41)は、一組の夫婦と向き合っていた。

 末期腎不全を患う中川章治郎さん(51)=真庭市=は40年近く、病と闘っている。14歳の時、尿検査でたんぱく尿が検出され、IgA腎症と分かった。体を守る免疫物質が腎臓を攻撃し、炎症を引き起こす。原因不明で根本的な治療法がない国の指定難病だ。

 できるだけ進行を遅らせようと、塩分・水分の取り過ぎに注意するなどの生活を続けてきたが、ここ数年で病状の進行が目立ってきた。常に倦怠(けんたい)感に見舞われ、仕事もままならない。腎臓の数値も徐々に悪化していた。

 「私が提供者になれるなら」と、妻の恵美さん(50)が口を開いた。自分の健康な腎臓を夫に―。かけがえのない日常を取り戻そうと夫婦が下した決断に、西村も応じる。「頑張りましょう。僕も全力を尽くします」

バトン 

 腎臓は腰の上の両側にあり、そら豆のような形をしている。体にたまる余分な水分や老廃物を尿として体外に排せつする役割を持つ。

 腎炎などによってその機能が落ちていくと、体にむくみが生じ、だるさを感じるようになる。症状が進むと息切れや食欲低下に見舞われ、場合によっては意識が混濁する。そうなれば血液透析を週3回程度行い、老廃物を取り除かなければ命が危ない。

 だが、透析後も食事制限は欠かせない。老廃物が取り切れず、体調不良に苦しむ人も少なくない。中川さんも片頭痛がひどく、食事の時以外は寝て過ごす時間が増えていた。唯一残された治療法が腎移植だった。

 岡山大病院は09年から腎移植に取り組んでいる。東京女子医大やクリーブランドクリニック(米オハイオ州)などで移植医療を学んだ荒木元朗・泌尿器科教授がチームを立ち上げた。積み重ねてきた症例数は献腎(脳死、心停止)・生体合わせ162例(23年9月現在)と中四国トップクラスを誇る。西村は荒木教授ら先輩医師からバトンを受け継ぎ、20年からチームを率いる。

信頼関係 

 西村が最も重視しているのが、患者や家族との信頼関係だ。

 中川さんが行った生体腎移植は、健康な人の体にメスを入れる特殊な医療となる。倫理的な問題が大きく、ドナー(臓器提供者)、レシピエント(移植患者)に加え、家族ら周囲の理解と協力が欠かせない。

 さらに、移植後に拒絶反応を抑える免疫抑制剤を飲み続ける必要が生じるなど、手術前後の生活は一変する。さまざまな課題について、西村は対話を重ね、丁寧に説明していく。

 「手術をして終わり、ではなく、山あり谷ありの日々を一緒に歩んでいく。患者さんの人生を背負う覚悟で臨んでいる」。患者との絆を第一に考える姿勢にぶれはない。

 中川さんはそんな西村に命を託した。病状の変化に伴い、2度手術を延期したものの、23年6月、無事、恵美さんの腎臓が移植された。正常に機能し、経過は良好という。

 「50歳を過ぎて新たな人生が始まった。命をつないでいただいた先生には、感謝という言葉以外、見つかりません」と話す中川さん。その言葉に背中を押され、西村はまたメスを握る。

 (一部敬称略)

医師に必要なのは、「勇気」だと思う。

 ―生体腎移植手術を取材させてもらいました。ポイントはチームワークですね。

 スタッフ6人が二手に分かれ、ドナー(臓器提供者)とレシピエント(移植患者)の手術を同時に行います。血管の数や形態が事前の予測と異なっていても、常に声を掛け合うことで、臨機応変に対応できる態勢を取っています。

 ―レシピエントの手術時間は6時間ほどでした。

 平均的な時間です。腎移植の歴史は古く、手法もある程度確立されています。細心の注意を払っていれば、決して難しい手術ではありません。だからといって早く終わればいいというものではなく、どれだけ丁寧に手術を行うかが合併症予防につながります。

 しかし、うまくいかないことはあります。そんな時、医師に必要なのは立ち止まる勇気、やり直す勇気ではないでしょうか。瞬時の判断力と行動力をどう磨いていくか。常に意識しています。

 ―なぜ医師を目指したのですか。

 大工だった父の存在が大きいです。作業中に転落して足が信じられない方向に折れ曲がったり、指がちぎれそうになったり、けがが絶えませんでした。それでも、病院で治療すると、ちゃんと治ってまた現場に戻ることができている。子ども心にお医者さんってすごいなと思ったのを覚えています。

 先輩の導きもあり、専門領域は泌尿器科を選択しました。自分たちが診断をつけ、手術を行い、その後の治療や看取りまで担います。その人の人生に一貫して携われるのが特徴です。その分やりがいはあります。

 ―日本では献腎(脳死、心停止)による臓器提供が少なく、移植の機会が限られています。

 日本臓器移植ネットワークによると、腎移植を待っている患者は、全国で約1万4千人に上ります。圧倒的に臓器が足りない現状があり、待機期間は平均で15年に及びます。ドナーとなる方々のご厚意で成り立つ腎移植を安全かつ着実に進めていくことが、私に課せられた使命だと思っています。移植医療のよさを多くの人に知ってもらう活動にも力を入れていきたいです。

西村助教プロフィル

■1982年、丸亀市生まれ。祖父と父は大工で、仕事が終わった夕方には、家族そろって晩ご飯を食べるテレビアニメの「サザエさん」のような家庭だった。小学4年生からミニバスケにはまり、地元のスポーツ少年団で活躍。中学・高校でもバスケに没頭する。

■2001年4月、岡山大医学部に進学。部活は軟式テニス部に入る。医学部に受からなかったら、父の跡を継いで大工になろうと考えていた。

■07年4月、初期研修先として香川労災病院(丸亀市)を選択する。この時には既に泌尿器科医になろうと決心していた。軟式テニス部の先輩で、同科の和田耕一郎医師(現島根大泌尿器科学教授)の誘いが大きかった。

■16年4月、国立病院機構岩国医療センター(山口県岩国市)で勤務していた時に、再び和田医師から連絡が入る。岡山大病院に戻り、腎移植チームに加わることになる。

■22年1月、病棟医長となり、多忙な日々を送る。腎移植チームを立ち上げた荒木元朗教授の下、移植医療の充実にも力を注ぐ。休日は部屋を掃除し、気分をリフレッシュさせる。

患者からのひと言
生体腎移植手術を受けた中川章治郎さん(51) じっくり話を聞いてくれる先生


 幼稚園からの幼なじみである妻と27歳で結婚し、衣料品店「GIZA―GIZA」を一緒に経営しています。明治に創業した呉服店から始まった家業であり、病状が進んだ時は「自分の代で途絶えてしまうかも」と悩みました。

 そんな時、妻から「私の腎臓を使って」と言われた時はびっくりしました。夫婦であっても勇気のいる行動だったと思います。

 移植手術が2度延期になり、不安に感じていた私たちを支え続けてくれたのが西村先生です。これほどじっくり話を聞いてくれる医師に初めて出会いました。先生や妻のおかげで私は生きているんだと日々実感しています。
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2023年10月02日 更新)

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