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つなぐ県北医療 津山中央病院開院60年(上)誕生 救命願い開業医結束

開院当時の津山中央病院本館。2階部分に十字マークが見える

 津山市中心部の再開発ビル「アルネ・津山」(新魚町)に接する二階町。1954年7月、県北初の総合病院・津山中央病院はその一角で産声を上げた。現在は外来専門の津山中央クリニックと津山中央記念病院が立つ場所だ。

 50年代初め、日本は戦後の混乱期をようやく脱し、高度経済成長へ向かう時代のさなかにいた。医療分野も例外ではなく急速な発展を遂げたが、当時、津山市を中心とする作州エリアは人口30万人規模で総合病院が全国で唯一ない地域といわれていた。

 個人の開業医ではおのずと治療に限界があり、重症者の多くは県南の大規模病院へ搬送。その途中で命を落とす患者も珍しくなかったという。

 そんな現状に忸怩(じくじ)たる思いを抱く医師が二階町にいた。牧山耳鼻科の牧山堅一と宮本整形の宮本祥郎だ。

 最新の医療設備を備えた総合病院をつくり、助かる命を一人でも救いたい―。

 30代の働き盛りで幼なじみでもあった2人の英断に、額田外科の額田須賀夫、上野眼科の上野英高らも賛同。国や県との折衝や医師会との調整などを進め、54年4月に経営母体となる財団法人・津山慈風会を設立する。それぞれが人脈を駆使して小児科や産科などの医師を確保し、土地や医療機材といった私財も提供。9診療科、100床を超える総合病院の開設という一大事業を一気にやってのける。

異例

 津山中央病院20年誌(74年発行)に収録されている開院直前の新聞記事は、こう記す。

 <市内の開業医10余名が力を合わせて社会事業にまで手を伸ばそうということは全国的にみてテストケース>

 当時の総合病院は公立が主流。民間によるものは極めて異例だった。

 開設に当たっては厚生官僚から51年に県知事に転身し、医療福祉の向上に尽力した三木行治の支援もあった。

 51歳の若さで64年に急逝した牧山の長男で津山中央記念病院名誉院長の政雄(70)は言う。

 「経済が上向き、まとまった土地があり、気心が知れた同志が集まった。まさに『天の時・地の利・人の和』がそろったからこそ成し遂げられたのだと思う」

気概

 発祥の地、二階町に60年前の面影はないが、十字マークが入った 瀟洒(しょうしゃ)で近代的な当時の建物の写真から、創設者たちの気概が伝わってくる。津山中央病院の本館だ。

 その後、病院は津山初のエレベーターを備えた7階建ての北館(60年)、9階建ての南館(70年)を相次いで整備。入院・外来患者数も初年度の8万9538人から55年度は18万7480人に急伸し、67年度には33万7152人に達した。

 地域のために結束した開業医たちの手によって生まれた病院は、県北の医療拠点として存在感を増していく。(敬称略)

     ◇

 津山中央病院が津山市に誕生して今年で60年を迎えた。県北初の総合病院として地域医療を長年けん引してきた歩みと現状などをリポートする。
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2014年12月04日 更新)

タグ: 津山中央病院

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