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(1)娘の贈り物 葛藤の先、誰か救われる

病院屋上のヘリポートを窓越しに見つめる山本さん。4年前の出来事を今も忘れない=倉敷市美和

 臓器移植法が施行され、20年が過ぎた。ドナー、レシピエント(移植患者)、それぞれの家族や医療者。脳死移植に関わる人々の思いを岡山の現場から報告する。

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 倉敷中央病院(倉敷市美和)の看護師長、山本礼子さん(46)は、あの日のことをはっきりと覚えている。

 2013年12月21日。午前6時を過ぎ、空はうっすらと白み始めていた。病院の屋上から飛び立つヘリコプターを一組の家族が窓越しに見つめていた。

 ヘリの座席にはクーラーボックス。臓器移植法に基づき脳死と判定された20代女性から、15分ほど前に摘出されたばかりの心臓が納まっていた。行き先は岡山空港。チャーター機で羽田空港へ向かい、救急車で東京大病院へ届けられる予定だ。

 「娘からのクリスマスプレゼントかな」。女性の母親がつぶやいた言葉を山本さんは耳にした。

 家族を失う悲しさは計り知れない。臓器の提供に至るまで、何度も心が揺れ動いたことを山本さんは知っている。だからこそ、決断した両親の思いをその言葉からくみ取った。

 心臓が飛び立った後も肺、肝臓、腎臓が次々と車で出発していく。仙台や神戸の病院で待つ患者のために。

 「行ってらっしゃい」「頑張ってね」。臓器が入ったボックス一つ一つに手を当てて見送る両親の姿に、山本さんも自然と涙が出た。看護師として初めての経験だった。

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 倉敷中央病院で脳死と判定された20代女性の両親が、臓器提供を決めたのは3日前、2013年12月18日にさかのぼる。

 「深い昏睡(こんすい)状態で瞳孔散大、脳波も平たん。状況を見る限り、脳死とされ得る状態です」。面談室の椅子に腰掛ける2人に脳神経外科医が伝えた。

 頭部外傷で運ばれ、懸命の治療が続けられたが、思わしくなかった。提供について口火を切ったのは両親だった。「娘は普段から移植医療に関心を持ち、半年余り前の5月、健康保険証に意思を記している」。心臓、肺、肝臓、腎臓、膵臓(すいぞう)、小腸に丸印が付いていた。

 「一度、ご飯でも食べてきたらどうですか」。気丈に話す両親を見て、看護師長の山本さんは声を掛けた。提供を決めるにしても、寝不足が続き、体調を崩しているように見えた。

 数時間後、戻ってきた両親はあらためて提供の意思を伝えた。意向を受け、病院側も動く。移植の仲介をする岡山県臓器バンク(岡山市)に連絡すると同時に、脳死判定のため複数の医師を招集。摘出を手伝う手術部のスタッフにも声を掛けた。

 両親から承諾書を受け取り、2回の脳死判定を終えた19日午後8時40分、女性の死亡が確定。翌々日の午前5時45分、院内で最も広い手術室に全国から医師約20人が集まった。

 「黙とう」。臓器を摘出する医師がこうべを垂れた後、東京大病院から来た心臓チームが最初にメスを握った。

つらい医療 

 「本人の意思を尊重したい」「どこかで生き続けてほしい」「人の役に立ちたい」―。ドナー(臓器提供者)やその家族が提供を決める理由はさまざまだ。

 1997年10月の臓器移植法施行後、脳死となり臓器を提供したのは全国で485人(10月末現在)。移植された臓器は2千を超える。

 まだ体が温かく、心臓が鼓動する中での提供は、残された家族にとって、大きな葛藤を伴うのは間違いない。葛藤の先に、多くの命が救われている。

 2015年にも脳死患者の臓器提供に携わった山本さんは「ドナー本人の治療が目的ではないだけに、私たちにとってもつらい医療」と打ち明ける。その上で「移植でしか救われない命もある。その命をつなぎ留める取り組みとして、これからも臨みたい。それがドナーや家族の思いに報いることになる」と話す。

 臓器移植法 脳死になった人からの心臓や肝臓などの摘出と移植を認めた法律。臓器提供のために2回の脳死判定を行い、脳死が確定した場合のみ「脳死は人の死」と定めた。当初は15歳以上を対象に、本人の意思がカードなど書面で示され、家族が拒まない時に限って摘出できるとした。2010年施行の改正法で、子どもを含め、生前に拒否していなければ家族承諾で提供可能とした。
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2017年11月18日 更新)

タグ: 倉敷中央病院

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