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第2回 世紀の発見 秦佐八郎 独留学で梅毒特効薬

サルバルサンを創製したエールリッヒと秦佐八郎(北里研究所提供)

 明治四十(一九〇七)年、伝染病研究所第三部長秦佐八郎は三年間ドイツ留学に旅立ち、ベルリンのコッホ研究所に入った。岡山の母校・第三高等学校医学部の恩師荒木寅三郎教授が学んだ国、当時の日本の医学者あこがれの地だった。コレラ菌、結核菌を発見したコッホはフランスのパスツールとともに世界の細菌学をリードしていた。

 伝染病研究所長北里柴三郎は十七年前、ドイツでコッホの直弟子として破傷風菌の純粋培養世界初の成功など大きな成果をあげた。北里は、世界のひのき舞台にペスト対策でよく働き、三十四歳、医学者として気力体力充実の秦を送り出した。

 コッホ研究所で一年免疫学の研究をし、フランクフルトのエールリッヒ博士の研究所に入った。コッホと並ぶ俊秀で、一九〇八年免疫療法でノーベル賞を受賞したばかりだった。

 秦のために広い研究室と助手、実験用の動物が用意され研究は始まった。梅毒の病原菌スピロヘータに効く化学製剤(医薬品)の発見がテーマになった。自分の前に伝染病研究所の先輩で、赤痢菌発見で知られる志賀潔がエールリッヒの下で研究、博士は日本人医学者の優秀さを知っていた。梅毒は世界の人々が悩む性感染症で、有効な治療薬がなかった。

 実験はウサギに病原菌を植え、化学製剤の薬効を試すことの繰り返し。博士は有機ひ素化合物に着目、数をこなし、効果のあるものをしぼり出す作業。次々と化合物を変え、六百六番目の有機ひ素化合物が抜きん出てよく効くことがわかった。動物はウサギ、サルと変わっても、効いた。しかも死ななかった。

 スピロヘータを病原とする急性の伝染病再帰熱の患者に治験。恐る恐る少量を注射すると数時間にして熱は下がり、患者は回復。特効薬サルバルサン誕生の歴史的瞬間だった。大ニュースとして流れ、ドクトル秦の名は世界に広まった。

 明治四十三(一九一〇)年帰国。日本の梅毒患者が待っていた。サルバルサン投与法の臨床講習会を始めた。副作用があり慎重な処置が必要だった。各地を講演して回った。

 昭和三(一九二八)年、フランクフルトでサルバルサンの国際会議が開かれ、秦は各国まちまちだった化学製剤サルバルサン検定法の国際基準づくりに主導的役割を果たした。

 思えばサルバルサン発見から十八年、思い出の地にエールリッヒはなく、墓参をして過ぎし日を回想した。燃えるような朱夏の日々だった。実験に明け暮れ、一年半足らずで世界が驚く特効薬が生まれた。出会った時の博士と同じ五十五歳になっていた。

 国内での患者投与、戦争で輸入禁止になり国産サルバルサンの効力検査で高純度の薬品化への貢献、梅毒の母子感染防止、帰国後もサルバルサンと走り続けていた。戦後、抗生物質ペニシリンが登場し、新たな特効薬となるまで、世界の多くの人々を救った。

 晩年は北里の遺志を継ぎ、結核対策に取り組む。趣味は菊作り、相撲見物。六十五歳で亡くなるまで慶応大教授を務め、菊が咲くと学生を自宅へ招き、酒を楽しんだ。

 亡くなった翌年、岡山医大で岡山医学会五十周年記念式が開かれた。記念講演した荒木は秦を 偲 ( しの ) んだ。「長所は推理の透徹、考察の 緻密 ( ちみつ ) 、実験の精確、精力の絶倫の四つ」と 称 ( たた ) え鳳岡の号を持つ漢詩人荒木は詠んだ。

 弔秦佐八郎 鳳岡

学究淵源技入神

被蒼何意奪斯人

秋風落日青山路

白髪儒生涕涙新

学問は淵源をきわめ

医術は神技の域に達した

天はなんのはからいであろうか かくも優れた人物を奪い去ってしまった

落日の淡い光りの中を

墓所へと路を歩めば

白髪もめっきり増した老学徒は涙がまた新たにあふれ落ちる(訳 広常人世岡山大名誉教授)

 (敬称略)
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2006年09月03日 更新)

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