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第3回 第一生命社長 矢野恒太 保険医から創業 結核対策で次々事業

晩年の矢野恒太。経済人として活躍した(第一生命提供)

 岡山県医学校から岡大医学部までの卒業生で組織する岡山医学同窓会は百二十六年の歴史を誇り、卒業生一万一千余人に及ぶ。多くは医師の道を歩んだが、異色の世界で活躍したのは矢野恒太、岡山孤児院を開設した石井十次、岡山県知事三木行治らがいる。

 矢野恒太は明治十六(一八八三)年、岡山県医学校に入学した。九州の学生が多く、高鍋の石井十次がいた。年長の矢野は人望があり級長に選ばれ、石井は勉強熱心なクラスのリーダーだった。学制変更で国立の第三高等中学医学部になり、矢野は四年生の時、学生同士が勉強する岡山医学会の結成を提案、第一号の会員になった。今、機関紙岡山医学会雑誌は千二百九十号を数え、国内十指に入る伝統の地方医学会に育っている。

 二十四歳で卒業、恩師で大阪医学校長になっていた清野勇の紹介で大阪の日本生命保険医になった。三年で退職後も図書館に通い、保険制度と経済学の勉強に熱中。事業による剰余金の大半を配当金として契約者に還元する相互組織の保険会社があることを知り「非射利主義生命保険会社の設立を望む」という本を自費出版した。

 渡欧し、ドイツのゴーダ相互保険会社などで二年間保険実務を研修、帰国後、農商務省で保険業法の起草に参画、初代保険課長になった。そして念願だった日本初の相互保険会社・第一生命の設立にこぎつけたのは明治三十五(一九〇二)年。日本生命を退職、医師の道を捨てて、雌伏十年、三十七歳になっていた。

 第一生命は大正に入り全国展開し五大生命保険会社の一角を占め、昭和になると保有契約高で業界二位となり、矢野は昭和二十一(一九四六)年まで三十一年間、社長、会長を務め保険業界のリーダーとして活躍した。

 働き盛りの矢野が取り組んだのは結核対策。年間八万人が死亡、国民病と呼ばれた。大正二(一九一三)年、北里柴三郎が日本結核予防協会を設立、矢野は理事に就任した。ここで出会ったのが岡山の母校の後輩、北里研究所の秦佐八郎博士。梅毒の特効薬をドイツで発見し帰国、四十歳の秦はノーベル賞候補になる世界的な細菌学者だった。保険業界に新風を巻き起こす矢野は四十八歳。岡山の先輩、後輩が結核対策で手を組んだ。

 昭和に入っても結核で年間十二万人が死亡、矢野は昭和十(一九三五)年、財団法人保生会を設立、結核療養所の建設、早期発見、治療、相談などの事業に乗り出した。会長は矢野、理事長は秦。北里研究所の副所長になっていたが、療養所の設計などすべてを取り仕切り、三年後その完成を待たず秦は亡くなった。身命を賭した最後の仕事だった。

 同十四(一九三九)年、官民あげての結核予防会が設立され、矢野は完成した結核療養所など保生会の全財産を寄付し予防会理事に就任。医学界を代表して副会長には矢野と秦の母校教授だった荒木寅三郎枢密顧問官がなった。保険業界の先頭をきって結核対策に乗り出した矢野、財界でも一目置かれる経営者になっていたが、医家に生まれ医学を学び、保険医だった血と誇りが発揮された。

 故郷への思いは深く、私財を投じて農村青年教育の場として岡山市竹原に三徳塾を開設、後に岡山県へ寄付した。跡地に顕彰碑が残る。「名利に恬淡、直言清行、数理に長じ文筆に達し」。撰は岡山医大卒の三木知事。農業青年を励ます矢野賞は百七十四人に贈られ、今なお続く。

 孫の秋口マリ子さんは「大手饅頭が大好物でした。健康には留意し、小豆入りの玄米ご飯にゆでた野菜を食べていました」と回想する。

 (敬称略)
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2006年09月04日 更新)

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