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第10回 永瀬 正己 ( まさき )  臓器移植基盤づくり 新たな生命倫理築く

生命倫理の論客永瀬

 六月、岡山市で「がんの悩み電話相談室おかやま」十周年記念シンポジウムが開かれた。開会あいさつは開設以来相談室長を務める永瀬正己元岡山県医師会長(内科医)だった。

 「がんを告知され、死期を迎える患者の苦痛をやわらげ、残された人生を有意義に過ごす終末医療の実践へ医師は真剣に取り組むべきだ」。九十一歳。口調に説得力があり、かくしゃくとしたもの。がん患者のため先頭に立ち、相談事業を行っている。

 永瀬は昭和四十二(一九六七)年岡山市医師会長に就任、翌年には県医師会理事。さらに日本医師会理事となり武見太郎執行部の一員となった。同五十七(一九八二)年県医師会長になり、日医理事の手腕が評価され、翌年、日医生命の倫理に関する検討委員会委員長として、体外受精、脳死、臓器移植など急速に進む医療に対し医の倫理を問い直し、新たな理論構築の確立へリーダーシップを発揮。その後、生命倫理懇談会委員を長くつとめ、日医の生命倫理の論客になった。

 この勉強を糧とし、永瀬は、岡山県の臓器移植の基盤づくりをする。同六十二(一九八七)年県腎移植推進協議会初代会長になり、移植手術を希望する患者数調査、腎臓バンク設立など精力的に進めた。平成九(一九九七)年臓器移植法施行、県臓器バンクに衣替えし理事長として肺、肝臓、心臓など移植に対応する体制をとり移植コーディネーターを配置した。

 同十一(一九九九)年三月、国内初の脳死臓器提供、心臓、肝臓、腎臓移植手術が行われた。六月、岡山大病院で肺移植手術の運びだったが、提供者の肺機能が低く見送られた。チャーター機で仙台まで飛び、残ったのは飛行機代百四十万円。永瀬は県展招待、独立美術会友の腕前で油絵三十点を岡大移植チームへ寄贈、一枚五万円で売れ、やっと移植チームは支払うことが出来た。

 こうした苦難を乗り越え、同十四(二〇〇二)年一月、岡大は四十代男性の肺移植手術に初めて成功した。「感慨無量でしたねぇ。岡山にも臓器移植時代がきた」。永瀬が移植に取り組んで十五年、八十七歳になっていた。現在岡大は脳死肺移植九例を実施。

 日本医師会代議員会議長の時、厚生省がん末期医療のケアの在り方研究班に開業医を代表して参加、末舛恵一国立がんセンター病院長ら五人でマニュアルを作成した。「がん告知の配慮、痛みのコントロール、家族のケア、精神的な支えなど末期がん患者のケアのあり方を示した」

 これをもとに八十歳から、がん電話相談に取り組んでいる。

 岡山空襲に遭い、岡山市中山下で県医師会長をしていた父正太の医院は焼け落ちていたが昭和二十二(一九四七)年、それを再建。診察室、薬剤室、寝室の小さな平屋建てだった。午前中は外来、午後は自転車を踏んで往診、開業医の生活が始まった。結核患者が多く、時には自動車を頼んで人工気胸器、レントゲン機器を運び、診断し 肋膜腔 ( ろくまくくう ) に空気を入れ、治療した。

 夜、枕元に電話を置き寝巻きを着ず、すぐ往診に行けるようシャツで寝た。少しずつ患者は増えスクーターに変わった。二十年間、開業医に専心、春風を持って患者に接したいと念じ、働いた。

 海軍軍医、開業医、二十五年間の医師会活動、岡山臓器バンク理事長、がんの悩み電話相談室長、まさに誠意、熱意、善意の歩みだった。

 「がんで死にたい。あといくらとわかり、準備もできる。延命治療はお断り。香典はがんと臓器移植に寄付し役立ててほしい」

 (敬称略)
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2006年09月19日 更新)

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