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第4回 岡山医専教授 上坂熊勝 脳神経研究 起首実証に熱意注ぐ

脳神経起首研究の先駆者上坂熊勝=岡山県歴史人物事典から

 「賞記 帝国学士院ハ医学博士上坂熊勝ノ脳神経起首ノ研究ニ対シ(中略)恩賜賞賞牌及賞金ヲ授与ス 大正二年七月五日 帝国学士院長菊池大麓」

 上質の和紙に筆で書かれた賞状が岡山大学医学部史料室に残る。優れた学術研究を顕彰する日本学士院は明治四十四(一九一一)年から恩賜賞、学士院賞を創設した。岡山医学専門学校の 上坂 ( こうさか ) 熊勝教授は第三回目の受賞者だった。

 菊池大麓は緒方洪庵の足守種痘に参加した菊池秋坪が箕作阮甫の娘と結婚、その二男として生まれ、東京帝国大学総長を務めた数学者。津山洋学の流れをくむ菊池が岡山で埋もれるようにして研究に没頭していた上坂に光をあびせた。くしき縁を感じる。

 明治三十三(一九〇〇)年開校した岡山医学専門学校は医専の愛称で親しまれていた。そこの先生が帝大にも負けない賞をもらったと一大ニュースになった。

 当日の山陽新報は「上坂博士栄誉」という見出しに、フロックコート姿の写真を掲載する異例の扱い。「授与式は本日同院にて挙行」「上坂熊勝の名は神経学に関する書中永く滅せざる」「他の指導をいまだ受けたることなく卓越せる成績をあげたる」と研究の成果をたたえている。

 上坂は慶応三(一八六七)年、金沢に生まれ、金沢医学校を卒業し上京、英語、ドイツ語を学んだ。明治二十六(一八九三)年、東京帝大医科大学助手になり、田口和美、大沢岳太郎教授の下で解剖学の研究を始める。金沢の第四高等学校医学部講師、大阪医学校教諭を経て、岡山に来て第三高等学校医学部講師になり、明治三十四(一九〇一)年、岡山医専解剖学教授に就任した。三十四歳だった。

 脳神経起首の研究を始めたのは大阪にいた時からで、教授になった岡山では助手らとともに思う存分研究に打ち込む環境が整った。犬、猿を使い動物実験で神経線維を変性させ、脳神経のおこり(起首)を実証しようと取り組んだ。

 研究の様子は山陽新報の記事の中にある授賞審査要旨にくわしく書かれてある。難しい動物実験の手術、その結果を示す数千枚に及ぶ顕微鏡標本の作成、数万の神経細胞を数えるなど、気の遠くなるような作業を積み重ねた。医学者としての探究心、熱意、集中力、壮年の体力があった。

 岡山大大学院神経機能構造学(神経解剖学)の筒井公子教授は「舌下、顔面、迷走などの脳神経を出す神経細胞群(神経核)を明らかにする研究の先駆者。当時の実験による証明はち密な作業の繰り返しで頭の下がる思いです」と明治、大正にかけて研究した先人をしのぶ。

 研究は十七年に及び、恩賜賞受賞の時、四十六歳。山陽新報が掲載した写真は細面、短髪、鼻筋の通ったすっきりした顔立ち、明治の学者の品格がただよう。

 昭和九(一九三四)年、六十七歳で死去。世事にうとく研究一筋の人生だった。没後七十三年になるが、日清、日露戦争を知らなかった人という伝説が今も残る。「道を歩く時も常に読書をし、電柱につきあたることもしばしばで、そのたびに電柱に頭を下げ謝罪した」と岡山大医学部百年史に書かれている。

 神経解剖学のメッカと言われた岡大解剖学の礎の人。(敬称略)
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2007年06月05日 更新)

タグ: 脳・神経

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