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第6回 癌研究会病院長 梶谷鐶  がん手術医 拡大根治術へ道開く

手術の鬼と言われた梶谷(左)と髙木

 昭和五十(一九七五)年十一月一日、岡山市、衛生会館三木記念ホールで日本医師会設立記念医学大会が開かれ、梶谷鐶癌研究会病院長は日本医師会医学賞を受賞した。武見太郎会長から表彰状、記念品を手渡された梶谷は晴れやかだった。

 総社市窪木に生まれ、六高に学び、六十五歳、癌研外科を率いる日本を代表するがん手術医になっていた。「胃癌の外科療法の研究―診断及び治療法の研究による遠隔成績の向上」と題して、故郷での晴れ舞台の記念講演を淡々と進めた。

 昭和七(一九三二)年、東大医学部を卒業、第二外科に入った。七年後、癌研究会康楽病院(戦後、付属病院に改称)外科に移った。癌研究会は明治四十一(一九〇八)年、国内唯一の民間がん研究機関として発足、付属の治療所として昭和七年、康楽病院を開設していた。

 がん治療専門の康楽病院外科部長久留勝は、後に国立がんセンター総長になる大物。着任した新進の外科医梶谷は三十歳、静かに情熱を燃やし、胃がんを中心に乳がん、大腸がん手術に取り組んだ。当時、胃がん手術はがん病巣のある胃の一部を切除するだけ。リンパ節の 郭清 ( かくせい ) もせず、手術中の死亡も多かった。「手術切除で、がん根治できるか」。大きな壁になっていた。

 二年後、久留部長が金沢大教授になり、梶谷は外科部長になった。高位 脊椎 ( せきつい ) 麻酔、輸血、輸液が可能になり、長時間、広範囲に切れるようになり、梶谷は胃を全部切り取る全摘出手術を十三例連続して実施。手術中の死亡は一例だけだった。これを昭和十八(一九四三)年、日本外科学会で発表、安全な胃全摘の手術法を示し、賞賛された。

 胃がん根治へ次に取り組んだのが再発、転移を防ぐリンパ節の郭清。がん病巣だけ切除しても、胃の周辺にあるリンパ節にがん細胞があれば、再発し転移もする。梶谷はここにメスを入れ、がん細胞を除去する郭清法の確立へ必死になった。一つずつリンパ節の転移を調べ、がん進行の経路をあぶりだした。昭和三十七(一九六二)年、陣内傳之助岡山大教授、久留大阪大教授、中山恒明千葉大教授らと胃癌研究会を発足させ、リンパ節を番号表示し、胃全摘、リンパ節郭清により胃がん拡大根治術へと道を開いた。

 胃がん根治へ三番目の取り組みは早期発見。この年、内視鏡が輸入され、梶谷は髙木國夫ら若い外科医に操作技術を習得させ、早期胃がんの診断と治療法を確立した。発赤、突起、陥没など胃表面の病変を発見、がん病巣の広さ、深さを把握、がん細胞を採取し分類識別へと研究を進め早期手術を実施。胃がん治癒率は大幅に良くなった。

 内視鏡による診断、治療の研究の中心になった髙木は昭和二十九(一九五四)年岡山医大卒。すぐ、癌研外科へ入り梶谷の下で三十四年間薫陶を受け、外科副部長、内視鏡部長を務めた。昭和四十四(一九六九)年、世界で初めて 膵臓 ( すいぞう ) のX線撮影に成功、胃、肝臓などに囲まれ見ることが難しかった膵臓を内視鏡で診断する内視鏡的胆管すい管造影法の創始者となった。

 梶谷は昭和五十九(一九八四)年、七十五歳になり、名誉院長になったが、電気メスを持ち続けた。八十二歳まで、五十九年間の外科医生活で約一万例のがん手術をこなした。「日本を代表するメッサー(執刀医)」「 腫 ( しゅ ) 瘍 ( よう ) 外科学の権威」「寡黙な手術の職人」と言われた。「過ちのない手術」が口癖だった。その人生は日本のがん外科の歴史だった。

 平成三(一九九一)年二月、八十二歳で死去。
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2007年06月12日 更新)

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