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2 まさか 日本初を取材 18年後自ら

車いすで手術室への扉をくぐる筆者。ここから先は清潔域。外界から隔絶され命のドラマが繰り広げられる=昨年3月18日、岡山大病院

 JR伯備線の特急「やくも」は振り子電車。カーブが連続する岡山・鳥取県境の山間部では、右へ左へと大きく車体が傾く。夕刻の車窓に映る杉、ヒノキの木立が純白の雪をいただいていた一九九〇年二月、私は出張の疲れを癒やそうと、カップ酒と振り子の酔いに身をゆだねていた。

 昔話にお付き合い願いたい。島根県出雲市に赴いた出張の目的は、島根医大(現・島根大医学部)の永末直文助教授にインタビューするため。杉本裕弥ちゃんの名を記憶している方は多いだろう。前年十一月、一歳になったばかりの裕弥ちゃんに、日本初の生体肝移植を施した執刀医だ。

 当時、裕弥ちゃんの容体が毎日、新聞、テレビで報じられていた。まだICU(集中治療室)で懸命の闘いが続いている最中だったが、無理を請い、前例のない手術に踏み切った思いをうかがった。

 年初から本紙に連載していた「揺れる『いのち』」と題した企画記事の取材だった。宗教、尊厳死、生殖医療などさまざまな側面から生と死をめぐる問題に向き合ったが、企画の構想段階では、生体肝移植の実現は全く想定外だった。

 私は警察を担当し、暴力団の抗争事件の取材などに走り回っていた駆け出し記者。正常な肝臓は70%程度まで切除しても再生する力がある、などという知識はない。生きている父の肝臓を切り分けて息子へ移植する手術ができるとは、思ってもみなかった。

 企画取材班に加わり、初めて肝臓病に苦しむ子どもや家族に接した。「 黄疸 ( おうだん ) 」「腹水」「食道静脈 瘤 ( りゅう ) 」などのつらい症状に思いをはせはしたが、十八年を経てわが身で体験することになろうとは…。

 「『手術中に裕弥ちゃんの心臓が止まる可能性もある』とはっきり告げた。一家は危険性を十分承知した上で決心を固めていた」。家族の「選択」を説明した永末医師の言葉が今も耳に残っている。取材後、裕弥ちゃんは一般病棟に移るまで回復したが、九〇年八月、術後二百八十五日目に亡くなった。

 同年六月、京大、信州大が相次いで生体肝移植を実施。術後一年以内の死亡例も少なくなかったが、 燎原 ( りょうげん ) の火のごとく、手術は全国へ広がっていった。あの時一例目がなかったら、日本の移植医療はどう展開しただろう。私は今生きていることができただろうか。

 生涯服用し続ける免疫抑制剤の副作用。拒絶反応と感染症への二正面作戦を強いられる術後管理。あえて移植の道を選ばず、わが子をみとった家族―。自分が何を取材していたのか、やっと身をもって理解できた。元総理もおっしゃるように、人生の坂はいろいろ。「まさか」がいっぱいあるのである。


メモ

 世界初の生体肝移植 1988年12月、ブラジルで4歳6カ月の胆道閉鎖症の女児に対して行われた。ドナーは母親。レシピエントは6日後に腎不全で死亡している。ブラジルの2例目、オーストラリアの3例目(日本人の母子間)に続き、裕弥ちゃんは世界4例目の実施だった。
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2009年04月20日 更新)

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