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忘れられない患者さん 岡山赤十字病院 院長 忠田正樹

 40年という長い診療活動の間、数多くの患者さんと出会った。忘れられない患者さんも多いが、特に印象深い方がいる。その方との出会いから別れまではほんの数分。これが大きく影響しているのかもしれない。

 それは私が若輩ながら医師として、およその診療はできるという自信を持ち始めた三十数年前のことだ。

 週に1度、診療に出かけていたある病院で、入院中の見知らぬ患者さんから突然、声を掛けられた。見たところ50代の男性。「先生は神経科の先生ですよね。ぜひ話を聞いてほしい。主治医は 胃潰瘍だと言うが、良くならずだんだん悪くなるばかり。このままじゃ死んでも死にきれないよ」と苦しそうな表情で訴えてこられた。悪性の疾患だろうと想像できたが、専門外で、しかも内科の主治医を差し置いて何かを言えるはずもなかった。

 今でこそ「がん告知」は普通のことだが、当時はまだまだ、十分な説明と同意を意味する「インフォームドコンセント」の概念も普及していなかった。むしろ、患者にとって悪い情報は知らせない方が患者のためという考えが、医療界では一般的だった。

 1週間後の診療日に気になり、訪室すると、その患者さんのベッドは空いていた。聞けば、先日亡くなったとのこと。「ああ…。もっと話を聞いてあげればよかった。どうすればよかったのだろう」と後悔した。私が30歳ごろのことである。

 今でも私は、この患者さんに次のことを教えられたと思っている。「医師ならば、たとえ病気が治らない場合でも、患者さんにしてあげられることがある。伝えなければならないことがあるはずだ」

 患者さんの「知る権利」が認識されるようになったのは、本当に最近のことである。

(2012年4月17日付山陽新聞夕刊「一日一題」)
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2012年04月17日 更新)

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